Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【大日本帝国海軍】重巡「利根」を(ちょっとだけ)知ろう【巡洋艦】

当ブログには、「世界のマイナー戦争犯罪」というシリーズ記事があります。

oplern.hatenablog.com

当該シリーズは、日本軍による南京事件ナチスドイツのユダヤ人虐殺といった有名どころの戦争犯罪は脇に置いといて、あまり知られていない戦争犯罪を取り上げてみようという企画なのですが、「世界の」とか言いつつ、日本軍の「やらかし」を取りあげる率が高かったりします。
これは私の趣味範囲によるところが大きいのですが、私だけが悪いのじゃなくて、日本軍の戦争犯罪実績(?)が豊富なのも原因の一つである……なんて言ってみたりしましたがこれ怒られるパターンですかね怒られますかじゃあごめんなさいまだまだ続くよ!

……さておき、日本率高めの当該シリーズではありますが、前回記事は、珍しく日本以外の戦争犯罪アメリカによる病院船攻撃を取り上げてます。

oplern.hatenablog.com

一応、申し訳程度に日本以外の戦争犯罪を取り上げましたので、今回は心置きなく日本の戦争犯罪を取り上げようと思ったのですが、急遽取りやめて唐突に何の脈絡もなく、重巡洋艦「利根」について書くことにしました。
世界のマイナー戦争犯罪(日本)は、次に回します。

今回は、日本海軍の誇る「航空巡洋艦」たる「利根」のお話をお楽しみください(?)。

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巡洋艦を(ほんのり)知ろう

まずは、「巡洋艦」というのがどういった艦艇なのか、少し説明を。

巡洋艦は、速力・航続力に優れ、偵察・警戒に従事する他、敵主力艦への雷撃や巡洋艦以下への攻撃などを行う艦です。
戦艦より小さく、駆逐艦よりは大きい戦闘艦で、日本海軍では主砲口径15.5cmを超えるものを一等巡洋艦、それ以外を二等巡洋艦と呼称していました。
1930年(昭和5年)に締結されたロンドン条約においては、8インチ砲(20.3cm)の有無で巡洋艦を大型・小型に分け、米海軍では大型を重巡洋艦、小型を軽巡洋艦と呼びました。こちらの方がイメージしやすいかも知れませんね。

日本海軍の重巡洋艦としては、妙高型(1万4984t)、高雄型(1万4838t)、軽巡洋艦としては長良型(6260t)、夕張型(3141t)、阿賀野型(7710t)などがあります。
なお、上記各艦にくっついてる数字は公試排水量です。一般に乗員を含む満載状態から、燃料などの消耗品を3分の1消耗した状態での排水量で、戦闘に臨む状態を想定してるのですが、各国により定義は異なったりするので、まあ、一応の大きさの目安なんだとでも思って下さい。

なお、今回の主役、利根型は公試排水量1万3320tで、搭載主砲は20.3cm(8インチ)、 一等巡洋艦重巡洋艦)となります。

重巡洋艦 利根

「利根型」重巡洋艦は、太平洋戦争に日本海軍が投入した6クラスの重巡洋艦の最後のクラスとなります。
一番艦「利根」が1938年11月20日竣工、二番艦「筑摩」が1939年5月20日の竣工で、「筑摩」は日本海軍が最後に完成させた重巡洋艦でした。

主砲と航空兵装

ワシントン・ロンドン条約下で、当初は15.5cm(6.1インチ)口径の主砲を搭載する二等巡洋艦(乙巡)として計画されましたが、起工前に軍縮条約の制限下より脱したため、計画を改め20.3cm(8インチ)砲装備の一等巡洋艦(甲巡)として竣工することとなります。

「利根型」は、水上機を用いた索敵・偵察能力が重視されており、6機程度の偵察機が運用可能でした。これは、他の重巡洋艦の倍の搭載数です。
水上機は、当初、三座の九四式水上偵察機(双浮舟)3機、二座の九五式水上偵察機(単浮舟)2機の合計5機が定数とされていました。後には、零式水上偵察機(三座)と零式観測機(二座)に更新されています。1943年になると、零式水偵5機に統一されたようですが、それでも状況に応じて二座観測機も搭載したようです。

航空機を多数搭載するため、主砲は前部に集中配備、後檣(こうしょう:船尾側マスト)から後方の後部上甲板、後部甲板はすべて「航空甲板」という、特徴的な配置となりました。

前部に集中している主砲は、20.3cm(8インチ)連装砲4基で、これまでの重巡と比較すると1基少なくなっています。五〇口径三年式二号二〇cm砲が採用され、九一式徹甲弾(砲弾重量125kg)を使用した場合の最大射程は約29.4kmでした。なお、主砲塔は、前型の「最上型」が搭載したE2型砲塔を改正したE3型砲塔が採用されています。

航空兵装については、前述の通り、後檣から後方の甲板部をすべて航空機用の艤装と航空機の搭載スペースに充てていました。
後檣の中央脚下部に置かれたクレーンポストには、航空機兼艦載艇揚収用の全長24mに達する大型クレーンが配されており、飛行機作業甲板の両舷には、薬発式のカタパルト(最大射出重量4トン)各1基を搭載しています。

ちなみに、主砲と航空兵装を分離することで、艦載機に配慮する必要なく主砲発射が行えるようになりました。
主砲と艦載機の位置が近いと、主砲発射時の衝撃で艦載機が破壊される恐れがあり、他の重巡では海戦が予想されると事前に艦載機を発進させたりしてます。
(大和型戦艦なんかだと艦内に格納してました。)

なお、1945年に入る頃には、性能的に有用でないとされて水偵搭載は行なわれなくなります。また、後甲板への対空火器増備に伴って航空艤装の一部撤去も行なわれました。

その他兵装

主砲と航空兵装以外の兵装についても少し。

利根型は、前型の最上型と同様の水雷兵装を装備していました。三連装魚雷発射管を、片舷2基ずつ、計4基搭載しています。搭載魚雷は、九三式一型で、これの射程は速力49ノットで約22km、42ノットで約30kmでした。魚雷搭載数は24本です。

高角砲は、八九式12.7cm連装高角砲が左右両舷に各2基の計4基搭載されました。対空機銃については、竣工時点で25mm連装機銃6基(12挺)が装備されています。対空機銃は何度かにわたって増備されたり更新されたりしましたが、1945年2月の最終改装後には計62挺となりました。

要目その他

一応、利根の各要目についても触れておきます。1938年公試時のものです。

基準排水量:11,213トン
公試排水量:13,320トン
全長:201.60m
最大幅:19.40m
速力:35.55ノット
燃料搭載量:2,690トン
航続距離:18ノットで約6,930浬
乗員:869名

なお、利根型は、日本重巡では最も防御力に優れており、世界的にも高水準といってよいものでした。速力、航続距離も水準以上であり、日本海軍最良の重巡洋艦といわれています。
太平洋戦争においては、その能力を活かして索敵・偵察・空母護衛・水上戦闘・通商破壊戦など多方面で活躍しました。通商破壊戦なんかは、とある事件を引き起こしちゃったりしてるのですが、まあ、この話は後ほど。

さておき、利根はスペック的な部分以外に、居住性の高さも長所として挙げられ、他の日本海重巡と比べて広い居住区を持っていました。人権意識が弱く搾取傾向は強い日本だとあまりピンとこないかもしれませんが、乗組員の心身状態が良好でなければ、存分に性能を発揮することは出来ないのです。
そういえば、6代目艦長となった黛治夫(まゆずみ はるお)大佐は、日本軍の悪弊である「私的制裁」を禁じたりしてますね。日本軍では、「私的制裁厳禁」とか言いながら自ら下位者へ殴る蹴るの暴行を加えたり、密かな私的制裁の横行に気づいていながら黙認していた士官もいたのですが、黛大佐は、毎月の疾病検査に立ち会い、アザのある兵を見つけると上級者を追求するなど真面目に私的制裁の根絶に取り組んでいたようです。

主な戦歴

利根の戦歴について、主なものを取り上げておきます。

まず、太平洋戦争開戦時のハワイ作戦では、真珠湾攻撃に先立ち同型艦「筑摩」と共に水上機による事前偵察を行なっています。
ハワイ作戦後の緒戦は、ほとんど空母機動部隊と行動をともにしており、ラバウル攻略やセイロン沖海戦などに参加しました。

その後、ミッドウェー海戦に参加。この際、利根、筑摩とも2機の索敵機を出すこととなりましたが、利根の索敵機2番手であった4号機の発艦が予定より30分ほど遅れ、これがミッドウェー海戦に重大な影響を与えた、なんていわれています。仮に予定通りに発艦していたとしても、あまり事態が変わるとは思えないのですが、ともあれ、「利根」乗組員にとっては痛恨の事態でした。

ミッドウェーの敗戦後、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦を経て、1943年12月1日には、前述の黛治夫大佐が艦長に着任します。黛大佐は海軍有数の砲術士官として知られていました。
1944年3月、利根は、インド―オーストラリア間での通商破壊戦「サ第一号作戦」に参加します。3月9日にはインド洋ココス島の南西に航行中の商船「ビハール号」を発見、旗旒信号と発光信号により国際信号を合図したものの、「ビハール号」が避退しようとしたため、やむなく撃沈しました。利根は「ビハール号」生存者を収容しますが、これは、捕虜60名以上を、利根艦上で殺害するという「ビハール号事件」を引き起こすこととなります。

1944年6月にはマリアナ沖海戦に参加、稼働全機を索敵に出しました。同海戦では日本側が先制攻撃に成功するも、米直掩機の迎撃により大損害を出して完敗しています。
同年10月にはレイテ沖海戦に参加しました。レイテ沖海戦では戦艦「武蔵」を護って奮闘するも、救うことはできず「武蔵」は沈没します。10月25日には、サマール沖で米空母部隊と会敵しました。これは小型の護衛空母部隊だったのですが、正規空母からなる主力部隊と誤認し総攻撃を行なっています。なお、この海戦では同型艦の筑摩が沈没しました。

11月17日には舞鶴に入港、修理と改装に入り、その後、1945年2月20日には呉に入港。海軍兵学校練習艦任務につきました。
7月5日には特殊警備艦(浮き砲台)とされますが、7月24日、28日の空襲で大損害を受けて大破着底となります。敗戦後、1945年11月20日に除籍となりました。

最後に

さて、今回記事は重巡洋艦「利根」についてでしたが、途中「ビハール号事件」なんてのが出てきましたね。
冒頭で述べた通り、次回は「世界のマイナー戦争犯罪(日本)」なわけですが、当然ながら上記の「ビハール号事件」について取り上げます。なんとも長い前フリでした。