Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【世界のマイナー戦争犯罪】ビハール号事件【日本軍】

前回記事では、大日本帝国海軍の「航空巡洋艦」である「利根」について取り上げました。

oplern.hatenablog.com

上記で触れた通り、重巡洋艦「利根」は、1944年3月に、ビハール号を撃沈した際に収容した捕虜60名以上を洋上で殺害するという事件を起こしています。
前回予告通り、今回は「世界のマイナー戦争犯罪*1」シリーズとして、この「ビハール号事件」について取り上げます。

なお、「世界のマイナー戦争犯罪」シリーズは、日本軍による南京事件ナチスドイツのユダヤ人虐殺といった有名どころの戦争犯罪は脇に置いといて、あまり知られていない戦争犯罪を取り上げてみようという企画です。

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「世界の」とか言いつつ、日本の登場頻度が妙に高いことに気づかれる方もいるかもしれませんが、その疑問については「そのような事実はない」とスカだかなんだかいう人風に答えさせていただきますごめんなさい。
なお、余計な余談ですが、1929年、当時日常化していた警察の拷問について、労働農民党の山本宣治が議会で取り上げたことがありました。この際、答弁に立った内務次官は、「あのような事実が我が日本の警察行政の範囲内に於てあるかどうかと云うことに就いては、断じて之れ無しと申上げて宜しかろうと思っている」などと白を切っています。これはあれですかね、日本の伝統的なやつなんでしょうか。とはいえスカと違って「思っている」とか付け足しちゃうあたりに、多少の迷いを感じますね。この内務次官はスカ、え、スカじゃないスガ?まあ、とにかくそいつほどには無責任になりきれなかったということでしょうか。

閑話休題
つい横道にそれてしまいましたが、次節よりビハール号事件について追っていきます。

ビハール号事件の背景 サ第一号作戦

1944年1月、東南アジア海域を担当する日本海軍の南西方面艦隊は、インド-オーストラリア間の海上交通破壊と敵船舶の捕獲による輸送力増強を目的とする「サ第一号作戦」を計画します。
ちなみに、作戦名の「サ」は、作戦を指揮する第十六戦隊司令官の左近允尚正(さこんじょう なおまさ)少将の姓からとっています。

「サ第一号作戦」では、特に敵船舶の拿捕が重要視されたようですが、この拿捕を担当する奇襲隊の兵力には、第十六戦隊所属の重巡洋艦「青葉」および「足柄」が充てられました。
他に、補給や、奇襲隊の出撃・帰投時の警戒にあたる部隊に軽巡洋艦「大井」「鬼怒」や第十九駆逐隊の駆逐艦が充てられています。

ところが、作戦直前に奇襲隊に充てられていた「足柄」が、第五艦隊へ転属となり、北方の警備につくことになりました。
そこで、当時リンガ泊地に在った、第三艦隊隷下の第七戦隊所属の重巡洋艦「利根」と「筑摩」が臨時に配属されることとなります。
なお、利根型重巡洋艦については、前回記事をご参照下さい。

さて、「サ第一号作戦」は通商破壊戦ではありますが、前述の通り、敵船舶の拿捕が重視されていたため、無差別に敵船舶を撃沈するといったものではありませんでした。
作戦要領で、奇襲隊については「敵船は之を拿捕し情況やむをえざる場合之を撃沈すべし」とされ、また、「捕虜は努めて之を獲得するものとす」としています。

1944年2月28日。バンカ泊地内の「青葉」艦上で、奇襲隊の打ち合わせが行なわれました。この時に、拿捕や撃沈、捕虜の獲得等の細部が検討され、翌29日には図上演習が実施されています。
しかし、上記28日の打ち合わせでは、捕虜の取り扱いについて「引っ掛かり」がありました。この時の「利根」艦長、黛治夫(まゆずみ はるお)大佐の回想によると、南西方面艦隊作戦命令の別冊「参謀長口達覚書」に、捕虜は数名を除き「処分」すると明記されており、これに対し絶対反対であると述べたそうです。
この捕虜「処分」の件には、不明な点が多いのですが、後には重大な事態を引き起こすこととなりました。
ちなみに、黛大佐によれば、現実に商船を捕獲する事態になると思わず、深く議論することなく話を打ち切ったということです。

ビハール号撃沈と捕虜収容

1944年3月9日午後、ココス島南西約850カイリの海域で、「利根」は1隻の商船を発見します。
商船は、メルボルンからボンベイに向けて航行中のイギリス船「ビハール号」でした。

「利根」は、12時12分に煤煙を発見、接近して商船であることを確認し、旗艦「青葉」へ敵船発見を無電発信しています。
商船は一度スコールに姿を消すものの、13時にスコールは過ぎ、再度商船を確認。敵商船が艦首・艦尾に8〜10cm砲を有していることにも気づき、有効射程は8000mと推定しました。

また、「利根」は、旗旒信号と発光信号により、敵商船へ国際信号を送っています。
内容は、「我は米国巡洋艦なり」「貴艦に手渡す郵便物あり」「電報を打つなかれ」「重要な通信あり近寄れ」でした。
これ以上無いくらい怪しいですが、ともかくも、敵商船はこれに応ずることなく退避しようとします。
13時17分に、距離9000mで主砲と高角砲の発砲を下令。この発砲に驚いたのか、敵商船は緊急救難無線を発しました。
「利根」は拿捕を断念し、ビハール号の撃沈を決めます。13時55分、ビハール号は沈没。
「利根」は、ビハール号から脱出した生存者を収容しました。

「利根」がジャカルタ入港後の3月16日に送付した「軍艦利根戦闘詳報」第6号によれば、収容し捕虜とした数は、イギリス人が女性2名を含む41名、中国人3名、インド人とゴア人が60名の計104名ということです。

ビハール号生存者収容後、第十六戦隊司令官から黛艦長宛に、敵船舶は拿捕が原則で、やむを得ざる場合のみ撃沈すると定めているのに、なぜ撃破するに至ったのか、と問い合わせがありました。
これに対し、「利根」からは、捕獲して連行できる限界線より遠かったこと、ビハール号が自沈退船を始めたからだと回答しています。

この問い合わせの際には、捕虜を処分すべしとの信号もありましたが、「利根」はこれに対して、捕虜は尋問中である、と答えました。「利根」はさらに、捕虜は処分せずに労働作業に従事させるべきとの意見具申も行いましたが、これに対する返答は、処分せよ、でした。

ビハール号事件

さて、「サ第一号作戦」では、「捕虜は数名を除き処分」とされていましたが、ビハール号撃沈により100名以上が捕虜となりました。

「利根」は3月15日にジャカルタに入港していますが、その後、左近允司令官に捕虜の助命嘆願を行なっています。
左近允司令官からの回答は、黛艦長の気持ちに理解を示しつつも、艦隊作戦命令に艦隊司令長官の方針が明示されている以上は動かしがたい、命令通りに実施せよとのことでした。

翌3月16日朝、「利根」「筑摩」は原所属への復帰を命じられます。真水、食糧、燃料等を搭載した後、18日の19時30分にジャカルタを出港しました。
黛艦長の回想によると、ジャカルタ停泊中の間に、艦長・副長による司令官への嘆願を行い、当初予定(「捕虜は数名を除き処分」の「数名」ですね)の士官捕虜15名以外に、女性2名とインド人20名(15名とも)を「処分」対象外と出来たようです。士官捕虜および女性は旗艦「青葉」に、インド人は陸上に送られました。
残る捕虜については、司令官から、俺の責任とするから残務整理のつもりで、シンガポールにつくまでに処理するように、と言われたとのことです。

ジャカルタ出港後、苦痛の少ない方法で処刑することとし、3月18日深夜、後部甲板にて、当身により昏倒させた後に頸動脈を切る、という方法で全員を殺害しました。死体は海中に投棄しています。

戦争裁判

「ビハール号」捕虜の殺害は、戦後、香港における戦犯法廷で裁かれることとなります。
1947年9月19日から戦争裁判が行なわれ、左近允司令官、黛艦長の言い分が対立していますが、左近允司令官は死刑、黛艦長は懲役7年の判決が下されました。なお、前述の南西方面艦隊作戦命令の別冊「参謀長口達覚書」は発見されないままで法廷に提出されておらず、真相は不明なままに、現場の最高責任者二人が、直接関係者として刑を受けたことになります。
左近允司令官は、1948年1月21日に刑死、黛艦長は1951年まで勾留されました。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

世界戦争犯罪事典

 

 

*1:実のところ、一口に「戦争犯罪」といってもその定義はあまり明確ではありません。狭義の戦争犯罪としては、ハーグ陸戦規定などの戦時国際法規に違反する民間人や捕虜への虐待・殺害・略奪、軍事的に不必要な都市破壊などが挙げられますが、一般的には、これに含まれないユーゴスラヴィアルワンダ内戦での虐殺、ナチスドイツのアウシュヴィッツなんかも戦争犯罪とされています。当ブログではあまりこだわらず、一般的イメージとしての「戦争犯罪」を扱いますのでご承知おきください。