Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【大日本帝国】大逆罪も(ちょっとだけ)知ろう【旧刑法】

前回、戦前日本の「不敬罪」について取り上げました。

oplern.hatenablog.com

そのついでに、今回は「大逆罪」について触れたいと思います。
ついでだからというわけでもないですが、ごくごく簡単にしか触れません(あまり時間が取れませんでした…)。その点はご容赦下さい。

大逆罪は、正式には「皇族に対する罪」であり、刑法第73条、第75条に規定されていました。ちなみに、前回取り上げた「不敬罪」も「皇室に対する罪」に含まれます。
「皇室に対する罪」は敗戦後、1947年の刑法改正で消え去っており、「大逆罪」「不敬罪」とも現在は存在しない罪となります。

大逆罪を(ほんのちょっとだけ)知ろう

「大逆罪」は、1883年(明治15年)施行の刑法では第116条、第118条、1907年(明治40年)の刑法改正*1後は第73条、第75条に規定されていました。
「大逆罪」の内容をざっくり言うと、

  • 天皇とか皇后とか皇太子とかに危害を加えた者は死刑、危害を加えようとしたものも死刑
  • 皇族に危害を加えた者は死刑、危害を加えようとした者は無期懲役

となります。

一応、実際の条文も見てみましょう。
まずは改正前で、刑法第116条、第118条。なお、変換がめんどくさいので旧字体新字体に直して書いてます。

第116条 天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス

第118条 皇族ニ対シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ処ス其危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期徒刑ニ処ス

 次は改正後(明治40年刑法)。刑法第73条、第75条です。

第73条 天皇太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス

第75条 皇族ニ対シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ処シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期懲役ニ処ス

 殺す殺すとうるさいですね。MG部隊かよ。

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神聖モテモテ王国より

さておき、刑法改正前後で「大逆罪」に大きな違いはないのですが、改正前は「天皇三后皇太子」とされていた部分が、改正後は天皇太皇太后、皇太后、皇后、皇太子と具体的に書かれたり、また、皇太孫が天皇や皇太子らと同じ条文に入れられたりしてます。

大逆罪と大逆事件

実際に大逆罪が適用されたものとしては、大逆事件明治43年)、朴烈事件(大正12年)、虎ノ門事件(大正12年)、桜田門事件(昭和7年)が挙げられます。

上記中、特に大逆事件はよく知られていますね。「幸徳事件」とも呼ばれ、幸徳秋水を「中心」とする全国各地の無政府主義者が、天皇や大臣の暗殺、官庁放火、市中略奪などを計画した疑いにより「大逆罪」に問われました。ディストピアらしく通常の犯罪事案と異なり、大審院のみの一審制、非公開で裁かれています。
被告26名中、幸徳以下24名に死刑判決が下されました。
(ただし、後に12名が恩赦により無期懲役減刑されています。)
この事件がフレームアップであった*2ことはよく知られていますが、同様に朴烈事件もでっち上げでした。

朴烈事件

朴烈(ぼくれつ)事件についても少しだけ触れておきます。

朴烈事件は、朝鮮人独立運動家でアナキストの朴烈(パクヨル)と、その愛人で同じくアナキスト金子文子(かねこふみこ)が、大逆罪をでっち上げられて有罪となった事件です。
起訴容疑が途中で切り替えられたり、死刑判決直後に減刑されたり、後述しますが怪写真流布事件があったりと、いろいろ奇妙な点がある事件でした。

関東大震災直後の1923年(大正12年)9月2日、二人は保護検束の名目で逮捕勾留されます。
翌年2月、二人は爆発物取締罰則違反で起訴されますが、その後、大正天皇暗殺計画を自白したとされて容疑が大逆罪に切り替えられることになりました。
1925年(大正14年)5月、二人は再び起訴され、1926年(大正15年)3月に死刑判決が下されています。
ところが、死刑判決翌月の4月。天皇の「慈悲」という名目で無期懲役減刑されました。
しかし、二人はこれを拒否。その後、7月22日には金子が獄中で縊死するという事態が生じます。
同月29日。今度は予審取調中の朴烈と金子の写真が、政界や報道会社に流布されるという事件が起こりました。
検事が取調中の部屋で写真が撮影されて、それが外部に流出、公開される、というまさに怪事件ですね。
ちなみに写真内容も異質なものでした。どんな写真かといえば、本を読む金子が、椅子に座る朴烈の足の間に入る形で寄り添っているという、まあ、イチャついてるといえなくもない写真だったのです。

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神聖モテモテ王国より

8月末には写真を流布した犯人として、北一輝西田税らが逮捕されました。北らの目的は若槻内閣転覆だったようです。
この事件は政局に利用されることとなり、立憲政友会政友本党が若槻内閣を攻撃。翌1927年1月18日には内閣不信任案が上程されています。
しかし、これに先立つ1926年12月25日には大正天皇が亡くなっており、この時局において政争を繰り広げることは望ましくないとして、1月20日、憲政会、立憲政友会政友本党3党首会談で政争中止が合意されました。
最後まで錯綜した事件だったのですね。

ちなみに、朴烈は戦後になって出獄。在日朝鮮居留民団団長や李承晩政権の国務委員などを務めましたが、朝鮮戦争にて北朝鮮に連行されています。後には、南北平和統一委員会副委員長に就きました。
1974年1月17日、73歳で死去しています。

 

 

*1:1908年(明治41年)施行

*2:大逆事件は、発端となった明科(あかしな)事件に、十一月謀議、内山愚童事件など個別の事件をつなぎあわせて、一つの事件としたものですが、大逆罪を適用しうるのは、明科事件くらいです。これも結構苦しそうですが。ちなみに、大逆事件裁判では、後の「複雑怪奇」首相である平沼騏一郎が検察側の実質的な責任者だったようです。当時の平沼は大審院次席検事でした。