Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【世界のマイナー戦争犯罪】タイの中立は日本によって侵犯されます【1941年12月8日】

ここ最近、軍法会議についてしつこく取り上げてきました。
日本軍で3回、現代の軍法会議は米・英・仏とそれぞれ1回ずつ記事を上げてるのですが、実はまだ終わってません。しつこいですね。
なお、しつこく地道に書いてきた記事は以下の通り。

【日本軍】軍法会議を(ちょっとだけ)知ろう【軍事司法】 - Man On a Mission

【日本軍】軍法会議をもうちょっと知ろう【軍事司法】 - Man On a Mission

【日本海軍】海軍の軍法会議【陸軍との違い】 - Man On a Mission

【米軍】現代の軍法会議制度 アメリカ編【軍事裁判】 - Man On a Mission

【英国】現代の軍法会議制度 イギリス編【軍事裁判所】 - Man On a Mission

【軍事司法】現代の軍法会議制度 フランス編【軍事裁判所】 - Man On a Mission

さらにもう何回か、軍法会議について書くつもりなのですが、しかし今日は12月8日、太平洋戦争開戦の日です。
よって、軍法会議の話はいったん中断して、太平洋戦争開戦にちなんだ話を。

「アジアの解放」(苦笑い)

12月8日にちなんだ記事として、去年は真珠湾攻撃を中心とした記事を書きました。と言っても、過去の関連記事一覧みたいなもんなのですが。

oplern.hatenablog.com

今回は何を書こうか迷ったのですが、太平洋戦争開戦時に国際法を侵してタイへ進入した話を取り上げることにしました。
大東亜戦争ローズヴェルトの陰謀で引きずり込まれたものだけどアジアの解放のためだった、なんて意味不明な世迷い言を言ってる方に、ぜひ読んでいただきたいと思ったのですが、どうせろくな反応しやがらねえので読まなくていいです。

なお、今回記事は当ブログの誇る(?)名物マイナー連載である「世界のマイナー戦争犯罪*1」シリーズとしてお送りします。
「世界のマイナー戦争犯罪」シリーズは、日本軍による南京事件ナチスドイツのユダヤ人虐殺といった有名どころの戦争犯罪は脇に置いといて、あまり知られていない戦争犯罪を取り上げてみようという企画です。
やや日本成分が多めなのですが、一応、アメリカやイギリスなど各国の戦争犯罪を取り上げていきますので、興味のある方はどうぞ。

世界のマイナー戦争犯罪 カテゴリーの記事一覧 - Man On a Mission

前置きがしつこくなってしまいましたが、次章より本題に入ります。

第二次大戦の勃発から太平洋戦争前夜まで

まず、第二次大戦勃発から、太平洋戦争に至るまでのタイの状況について概観します。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドを侵攻し、9月3日には英仏がドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発しました。
この事態を受け、タイは9月5日に中立を宣言します。
実のところ、第二次大戦が勃発する直前の8月、フランスはタイに対して、駐タイ公使を通じて不可侵条約の締結を要請していました。タイはこれを受け入れるのですが、これに加えて、国境を接するイギリス領ビルマ・マレーに軍を駐留させていたイギリス、並びに南方進出を目論む日本に対しても不可侵条約の締結を要請しています。
これにより、英仏とは、翌1940年の6月12日にバンコクで不可侵条約を調印しました。
日本はこの要請に対して当初は消極的だったのですが最終的には、英仏と同じく1940年6月12日に東京で友好和親条約を調印します。ただし、この条約では相互の領土を尊重するとしたものの、日本は「不可侵」という言葉は避けており、また、英仏との不可侵条約とは無関係とされました。

ところが、上記条約を結んだ2日後、パリがドイツ軍に占領されるという急展開の事態となります。
日本はこの機に乗じて、フランスで樹立された親独政権(ヴィシー政権)に対する交渉を強引に進めて、1940年9月に北部仏印に進駐するわけですが、一方のタイもこの事態につけ込みました。
タイは、フランスとの不可侵条約議定書に盛られたメコン河の国境確定交渉を、20世紀初めにフランスに奪われたメコン河西側の失地回復へと切り替えます。
当初、国境確定交渉は、メコン河が仏領となっていたものを、国際法に即してメコン河最深部を国境とするよう改めるだけのものでした。
タイはフランス公使に、国境確定のための代表派遣を促しますが、これにフランス側は応じず、不可侵条約の批准を早急に終えるよう要求します。
タイは英仏公使を呼び、失地回復要求についての本国政府への意向打診を要請しますが、これには、両国とも現状維持を説きました。
事態はこじれ始め、9月8日には、バンコク住民による失地回復のデモが起きたり、9月10日には、フランスが批准交換を経ず不可侵条約を即時発効するよう要請したり、タイが条約発効は失地回復と引き換えに行うと回答したりと、両国の関係は悪化していきます。

1940年11月28日、タイ軍は仏領ラオスへ進攻し、ついに国境紛争に発展しました。
ちなみに、1940年時点のタイ保有戦力は、以下の通り。

陸軍:歩兵14個師団、戦車90両、兵員数6万
海軍:海防戦艦スリ・アユタヤおよびトンブリを主力とする小艦隊
空軍:航空機140機

国境紛争は、当初タイ側有利に進んだものの、フランス側はタイ軍を内陸に引き込んで反撃に移り、また、タイ海軍のトンブリも交戦で失われるなど、次第にタイが不利な戦況となっていきました。

形成不利となったタイは、日本に仲介を依頼します。
1941年1月28日に、タイ、フランス両軍は停戦し、2月2日からは東京で調停会議が開始されました。
タイ側は、1893年以来のフランスに割譲した領土返還を要求したため、会議は難航しますが、3月11日にタイ側はようやく日本の調停案に応じます。
日本の調停案はタイ側に有利なもので、タイの失地回復を実現させることとなりました。とはいえ、タイの外務副大臣が、タイが得た領域はフランスに奪われた領土の8分の1にすぎない、などと日本の調停に感謝しながらも不満を漏らしたりしてます。

インドシナ国境紛争で、日本がタイの失地回復を実現させたことから、欧米各国はタイが日本陣営に入ったと判断したのですが、タイ国内の雰囲気は異なるものでした。
タイでは、失地回復の翌日、3月12日には、タイ全国の官公庁、学校で日タイ両国旗を掲げ祝ったとされています。これを無邪気に受け止めると、どこぞの保守だか右派だかの連中が言ってるようにアジアの民衆は日本に感謝してます、となりそうですね。
ところが、公使館付き武官の田村浩大佐は、タイの民衆は日本に感謝などしていない、と陸軍省に報告しています。
1941年7月、8月には、日本からタイ政府への1000万バーツ、2500万バーツの借款要請が立て続けになされ心象が悪化した他、タイ国内の日本人数が急増し揉め事が増えるなど、秋ごろにはむしろ、日本人への嫌悪感が増していました。

日本側は、日タイ両国の公使館を大使館に昇格させるなど親日気分を醸成しようとしていたようですが、7月28日には日本軍が南部仏印に進駐し、タイ国境近くにも姿を見せるようになると、タイの対日感情はさらに悪化します。

日本の対米英開戦が迫ってくると、タイのピブーンソンクラム首相(以下、ピブーンと略します)は、日本と戦う意思の無いことを示唆しつつも、タイの中心部に日本軍が進駐するのは、タイの面子を潰す行為であると発言し、日本軍のタイ通過を認めないような態度を見せます。
日本軍が英領ビルマやマレーに向けて進軍するにはタイを通過せねばならず、また、南北に鉄道網を持つタイは後方基地に適しており、これらを踏まえてのものでした。

太平洋戦争の開戦

太平洋戦争は真珠湾攻撃から始まったと思われることが多いのですが、実は、真珠湾攻撃より前にマレー半島上陸作戦が行なわれています。
この際、英領マレーだけでなく、タイ領への進入・上陸が行なわれていました。

1941年12月8日午前0時を期して、日本軍はカンボジア国境から東部タイに陸路で、タイ湾からはチャオプラヤー河口のバーンブーに、また南部タイではプラチュワプキリカン、チェンポーン、ナコーンシータンマラート、シンゴラ、パタニーなどに奇襲上陸します。

日本は、タイへの進入・上陸の2時間前にタイ政府へ日本軍の通過許可交渉を行う予定でした。
これは、11月23日の大本営政府連絡会議で決定した「対泰措置要領」に基づいています。対米英奇襲攻撃を想定し、機密保持のためタイとの外交交渉開始は開戦前日の午後6時以後から当日午前零時以前とすると定められていました。
南方軍総司令部は、タイ駐在陸軍武官の田村浩大佐に交渉開始を12月7日の午後10時とするよう命じていたのです。
(なお、タイが拒否した場合は、武力進出です。)

ところが、その2日前からピブーンはバンコクを離れており、首相官邸には姿を見せませんでした。
ピブーンは、この3ヶ月前に外敵が侵入する事態に対しては徹底抗戦を国民に呼びかけており、プラチュワプキリカン、ナコーンシータンマラート、シンゴラでは、上陸した日本軍と、タイの地元警察やタイ陸軍との間で戦闘が発生することとなります。

12月8日午前7時、ピブーンがバンコクに戻って、ようやく交渉が始まり、日本軍の通過が認められました。
しかし、停戦命令が徹底しなかった一部地区では、40時間に渡り戦闘が続き、日本軍250名、タイ150名の戦死者が出ています。
なお、日本側は後にピブーンへ日本軍通過の協定を軍事条約に改め、英米に宣戦布告するよう迫りました。12月21日には日タイ同盟条約が締結され、1月25日には宣戦布告しています。
ただし、この宣戦布告は形式的には完全なものではありませんでした。宣戦布告には本来、摂政3名の署名が必要なのですが、元蔵相の摂政プリーディが地方旅行の名目で雲隠れしていたため、摂政の長であるアーティットティッパアーパー親王がサイン無しのままにプリーディの名を連ねて布告しています。
終戦直後、タイ政府は、摂政3名中2名の署名しかないのでこの宣戦布告は無効!などと主張しました。しかし英国はこれを認めず、150万ドルの賠償金と同額分の米の供給を課しています。

日本軍はタイに進駐して以来、様々な要請を突き付けました。度重なる借款要請なんかが行なわれてますが、わけても第4期借款では6000万バーツに達しており、これはタイの年間予算の半分にあたります。
(ちなみに、当初は8740万バーツが要求されており、これを値切った結果が6000万バーツでした。)

最後に

さて、以上の通り、ピブーン不在という理由はありましたが、結果的には日本の国際法違反となっています。
ピブーンの不在は、故意に逃避したものともとれますが、日本側も、タイが拒否しても武力進出するつもりでした。

なお、12月8日の宣戦の詔勅には、日清戦争日露戦争第一次大戦開戦時の詔勅にあった「国際法の遵守」のくだりが抜けており、昭和天皇はこれに気づいて東條に問いただしたといわれています。
これに対する東條の答えは、陸軍は英領マレーのコタバルより北のタイ領シンゴラに軍を上陸させる計画で、国際法遵守を入れると天皇が嘘をつくことになるから、と説明したということです。

ちなみに、日本降伏後、タイ政府は日本との同盟条約は軍事力を背景に無理やり調印させられたものとしてその違法性を連合国に訴え、戦時中に獲得した仏領インドシナや英領マレーの「失地」を返還しました。その結果、アメリカはタイを敗戦国として処理せず、国際連合憲章における「敵国条項」にも連ねていません。とはいえ、前述の通りイギリスからは賠償金などを要求されてます。

……と、こんなとこでしょうか。
第二次大戦時のタイについては、他にもいろいろ書きたいことがあったのですが、時間があまり取れなかったので今回はここまでです。「他にもいろいろ」のところは、またそのうちに。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

世界戦争犯罪事典

 

 

*1:実のところ、一口に「戦争犯罪」といってもその定義はあまり明確ではありません。狭義の戦争犯罪としては、ハーグ陸戦規定などの戦時国際法規に違反する民間人や捕虜への虐待・殺害・略奪、軍事的に不必要な都市破壊などが挙げられますが、一般的には、これに含まれないユーゴスラヴィアルワンダ内戦での虐殺、ナチスドイツのアウシュヴィッツなんかも戦争犯罪とされています。当ブログではあまりこだわらず、一般的イメージとしての「戦争犯罪」を扱いますのでご承知おきください。