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システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【大日本帝国】法務官を(ちょっとだけ)知ろう【軍法会議】

 しばらく前から(1回中断があったものの)延々と軍法会議の記事を書いています。
前回は、現代ドイツにおける軍法会議(軍事裁判所)について取り上げました。

oplern.hatenablog.com

軍法会議と言いつつも、上記記事ではさる事情により、一般の刑事裁判所の話が多くなってしまいました。
ともあれ、今回も軍法会議に絡んだ記事なのですが、軍法会議そのものではなく、大日本帝国における法務官について取り上げます。

なお、前述したドイツの軍法会議を除く、今までの軍法会議関連記事は以下の通り。

【日本軍】軍法会議を(ちょっとだけ)知ろう【軍事司法】 - Man On a Mission

【日本軍】軍法会議をもうちょっと知ろう【軍事司法】 - Man On a Mission

【日本海軍】海軍の軍法会議【陸軍との違い】 - Man On a Mission

【米軍】現代の軍法会議制度 アメリカ編【軍事裁判】 - Man On a Mission

【英国】現代の軍法会議制度 イギリス編【軍事裁判所】 - Man On a Mission

【軍事司法】現代の軍法会議制度 フランス編【軍事裁判所】 - Man On a Mission

法務官とは

日本軍の法務官については、以前の記事でも一応取り上げています。

「法律の専門家」である法務官は、軍法会議長官に隷属し、裁判官あるいは検察官に任ぜられます。 法務官はもともとは文官であり、任用及び懲戒は勅令によって定むべきものとされ、また、刑事裁判または懲戒処分によるのでなければ、その意に反して免官または転官されることがないものとされました。これは、身分保障を行うことで、法務官の公正性と発言力を確保しようとしたものです。

【日本軍】軍法会議をもうちょっと知ろう【軍事司法】 - Man On a Mission

 法務官は、「法律の専門家」として、軍法会議では裁判官、予審官、検察官といった役割を務めました。
(同じ公判審理でこれらを兼任できたわけではありません。 法務部長の指示により、ある事件では検察官、ある事件では裁判官というやり方でした。)
軍法会議の概要については、上記記事と併せて、こちらを参照してください。

軍人前 〜 法務官制度の誕生から軍人になるまで 〜

日本軍の軍法会議には、1922年4月1日施行の陸軍軍法会議法/海軍軍法会議法により、陸軍法務官/海軍法務官が置かれることとなります。

それ以前の軍法会議においても、陸軍では理事、海軍では主理という「法律の専門家」が置かれてはいました。
理事/主理は、容疑者の尋問や証拠の収集を行い、また調書や判決書を作成し、さらに法廷にも列席しています。当時の軍法会議構成を定めた陸軍治罪法の解説書にいわく、理事は「軍法会議の中枢」であり、その「責任は絶大」だったわけですが、ところが、理事/主理は軍法会議において裁判官となることはできませんでした。

日清戦争日露戦争を経て軍制が拡大するにつれ、軍法会議の存在意義も増していくのですが、これにより陸軍治罪法/海軍治罪法の前近代性がクローズアップされることとなります*1

1920年1月9日、原敬内閣は陸軍軍法会議法案、海軍軍法会議法案などを閣議決定しましたが、軍事上の必要性を阻害しない範囲で一般社会に合わせる、という方針を採りました。この閣議決定では、秘密主義を廃し公開主義とすることや、被告人に対し弁護権や上訴権を付与すること、帯剣法官中に専門の法律家を交えることなどの6点が骨子とされています。
帯剣法官中に専門の法律家を交えること、という点の、「専門の法律家」が、新たに設けられた法務官制度です。

これら法案は、第44回帝国議会を通過した後、上奏を経て、1921年4月26日公布、1922年4月1日施行となります。ちなみに、陸軍法務官及海軍法務官任用令により、理事/主理は陸軍法務官/海軍法務官に任用できるとされており、多くの理事/主理が法務官となりました。

以前の記事でも書いてますが、法務官は文官でした。
陸/海軍軍法会議法の第35条では「法務官ハ終身官トシ勅任又ハ奏任トス」とされており、 この条文は、一般の裁判所について定めた裁判所構成法第67条「判事ハ終身官トシ親任勅任又ハ奏任トス」 に準じているものと思われます。
法務官は、身分保障についても判事と同様の保護が規定され、陸/海軍軍法会議法37条では「法務官ハ刑事裁判又ハ懲戒処分ニ因ルニ非サレハ其ノ意ニ反シテ免官又ハ転官セラルルコトナシ」とされていました。これにより、軍人に囲まれる中で職務を行う法務官の公正性と発言力を確保しています。
とはいえ、裁判官の多数は軍人が占め、さらに裁判長はその上席が務めるのが軍法会議ですので、法務官の発言力にも自ずと限界がありました。

以下、日高巳雄法務官による「陸軍軍法会議法講義」から。※やや長いので、めんどくさいから読みやすいようにひらがなを用いてます。

陸軍法務官とは本法に依り設けられたる官名にして、陸軍法務官は軍法会議の法務官として当該軍法会議の長官に隷属し其の命を受け裁判官、予審官又は検察官として最広義の訴訟上の職務を行ふものとす。而して法務官が裁判官たる場合に於ては所謂専門法官として其の専門的知識により審判事務の適正を期すことに務むべきものなりと雖も、法律上に於ては所謂帯剣法官たる判士と其の職務権限に於て何等の差異あることなく、事実の認定、法令の解釈に付全裁判官同一の機能を有するものとす。此の点に於て軍法会議は所謂参審制の裁判所なりと謂ふことを得べし。

法務官は、陸軍における法の専門家であり、法の執行者の一員でもありますが、それでも裁判官としては特別な権限が付与されているわけではありません。裁判官の多くは、一般社会と異なる論理を持つ将校です。法務官に身分保障があるといっても、軍の意向が強くあらわれたならば、どれほど影響力を発揮できるかは疑問です。

また、法務官は、将校らから数段低く見られ、軽んじられていました。
第十軍法務部長であった小川関治郎の陣中日記、1937年12月3日には、以下のような記述が出てきます。

動モスレバ吾々文官ハ差別待遇ヲ受クルコトナキニアラズ(特ニ戦地ニ在リテハ軍人ノ威力益々暴威ヲ振ヒ軍人絶対〇〇〇〇〇[5字不明:ちなみにこのカッコ書き箇所は二条の線で取り消されてます])只お情ニ頼ルノ外ナシト思フ

とはいえ、全く影響力がなかったというわけではありません。1985年から最高裁長官を務めた矢口洪一は元海軍法務官でしたが、「合議では、ほとんど法務官の意見が採用され」「よほど変なことを言わない限りは、その意見が通る」としています。よく知らない分野に口出しして恥をかきたくない、という心理が働いたっぽいですね。
まあ、所属する部隊や地域などにより差があったのではないかと思うのですが、問題となるのは、軍の「統帥の要求」とやらが強かった時に法務官がどれほど耐えられたか、発言力を確保できたか、というとこですね。この点については、割とネガティブな評価が見られます。

陸軍省軍務局軍事課長だった西浦進は、戦後に「陸軍法務官の能力の低いことは意想外であった。 五・一五、二・二六と法務官が世の注目を浴びるようになっていたときは遅かった。確固たる信念をもった法務官というものは, 遺憾ながら我々の在勤中には殆んど見られなかった」と自著に書いています。

1945年3月に第十七軍臨時軍法会議法務官職務取扱を命じられたことのある、花園一郎も「法務官の多くは職業軍人の恣意を法律で規制するどころか、逆に法律を巧妙に解釈して軍人の恣意の修飾に奉仕する法律技術者になり下がってしまった」と辛辣です。

まあ、法務官というか軍法会議の制度を見てると、法務官にだけ責任を押し付けるわけにはいかないと思うのですが、ともあれ、法務官の「無力」が露呈するケースは多かったんじゃないかと考えられます。

さて、そんな微妙な立場にいた法務官ですが、1942年には文官から武官(軍人)にされてしまいました。

そして軍人へ

以前の記事でも少し触れましたが、文官であった法務官は、1942年4月1日に施行された改正陸/海軍軍法会議法により武官制に移行することとなります。
これに伴い、陸軍法務官/海軍法務官は、軍の職名としての「法務官」に改められました。
前述した法務官の身分を定めた陸/海軍軍法会議法の第35条も、「法務官ハ終身官トシ勅任又ハ奏任トス」から「法務官ハ」「陸軍ノ法務部将校[海軍ノ法務科士官]ヲ以テ之ニ充ツ」と変更されています。
法務官の身分も陸海軍士官の規定が適用されることとなり、従来、法務官の身分保障を定めていた陸/海軍軍法会議法の第37条や、法務官の任用を勅令に委任するとしていた第41条は削除されました。

陸/海軍法務官らは武官となり、陸軍は法務部に法務中将から法務少尉までが、海軍は法務科に法務中将から法務中尉までが置かれることとなりました。
(海軍も規定上は海軍法務少尉が設けられているのですが、任官した士官が見当たらないそうです。)

この文官から武官制移行に係る法改正では、海軍省の政府委員となった法務局長の尾畑義純海軍法務官が「大東亜戦争ヲ遂行スルニ当リ」「統帥ノ要求即応シ、間然スル所ナラカシムルガ為メ、文官タル海軍法務官ヲ廃シ、専門法律家ニシテ将校相当官タル法務科士官ヲシテ之ニ代ラシムルコトガ必要」と説明しています。
つまるところ、裁判の独立性や公正性よりも、「統帥ノ要求」という軍の都合を通しやすくしたい、ということですね。

ちなみに、衆議院では、元検事の長谷長次委員が、身分保障を失った法務官が圧迫を受けることになるのではないか?という懸念を述べますが、これに対して答弁に立った陸軍省法務局長の大山文雄陸軍法務官は、「所謂軍人精神ノ下ニ、其ノ信念ヲ以テ職務ヲ遂行スル上ニ於キマシテハ、万一左様ナコトガアリマシタトシテモ、断ジテ心配ハナイ」と答えています。
バカみたいな精神論で押し通したわけですが、その根拠の無さはスカだかスガだかいう、どっかの官房長官みたいですね。

法務官になるには

なりたいかどうかはともかくとして、どうやったら法務官になれるのかについても、概要程度ながら述べておきます。
(ただし、文官時代の法務官についてとなります。)

法務官は、法務官試補から任用されます。つまり、法務官になる前に法務官試補にならなければなりません。
(注釈。法務官試補からだけでなく、陸/海軍法務官、理事、主理、判事、検事の在職経験者も法務官に任用できると定められています。)

では、法務官試補になるにはどうしたらよいかというと、司法官試補の資格を有するものから任用することになってます。
司法官試補の資格を得るには、高等試験司法科試験に合格しなければなりません。これに合格すれば、法務官試補を志願できます。

法務官試補に採用されると、軍法会議付として1年半以上の実務修習を受けます。その後、実務修習試験を受けてこれに合格すれば、晴れて法務官となりました。
ちなみに、実務修習試験は形骸化していたっぽいです。あと、実務修習期間も結構ばらつきがあり、その実態がよくわからないところがあります。

なお、法務官試補は奏任官、法務官は奏任官以上の高等文官でした。

最後に

さて、大日本帝国の法務官について述べてきましたが、最後に、印象的な愚痴を残していた小川関治郎第十軍法務部長のさらなる愚痴を。

自分ノ仕事ハ事件ガ少ク暇ナレバ他ヨリ法務官ハ用ナシトシテソノ存在ヲ軽視セラレ 事件多クシテ多忙ナレバ少クトモソノ関係方面ヨリハ決シテ喜バレズ ムシロ 余リ遣リ過ギルトノ批判ヲ受クルコトナキヲ保セズ 何レニシテモ吾々程損ナ立場ニ在ル者ハ他ニソノ比ナシト思フ

これは、前述した愚痴の10日前に記されたものです。ストレスの多い職場だったのでしょうね。

ちなみに、文官だったころの陸/海軍法務官は武器の携行が許されておらず、治安の悪い宿営地だと不安を抱えることになったようです。最後の最後に、小川関治郎第十軍法務部長の愚痴?をもうひとつ。

頗ル危険ヲ思ヘバ吾々ニテモ拳銃ノ携帯ノ必要ヲ痛切ニ感ゼリ 将来ハ法務官モ必ズ拳銃ヲ携帯スル必要アルベシ

 

 

*1:実は、陸軍治罪法制定直後から、すでに改正の必要性について指摘されてたりします。秘密審理であることや、弁護権や上訴権の欠如など、被告人の人権擁護に関して批判されました。1907年から翌年にかけて開催された第24回帝国議会では、陸海軍刑法の改正にあたっては、将来の訴訟法改正に際して被告人に対する弁護権や上訴権の付与を条件に協賛したい、とされてたりします。これは、衆議院で花井卓蔵が、軍人に対して上訴権を与え、弁護人を付する意向はないのか、と質問したことに端を発していました。花井はこの後も、陸海軍当局を追求し続け、軍法会議法の制定に重要な役割を演じることになります。