Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【日本軍】さらに軍法会議を知ろう【軍事司法】

今日も軍法会議についてです。

どこまで続く軍法会議

しばらく前から、延々と軍法会議絡みの話を書いてます...という出だしもいいかげん飽きてくるぐらい引っ張ってるのですが、なんと今回で9回目です。

結構な数になってきたので、ついにカテゴリーを設けました。

oplern.hatenablog.com

軍法会議に興味のある人がどの程度いるかわかりませんが、近年は、自衛隊軍法会議が必要とかいう話も目につくようになってきてますので、基礎知識としていかがでしょうか。

さておき、前回は軍法会議そのものではなく、日本軍の軍法会議のキーパーソンである法務官について取り上げました。

oplern.hatenablog.com

今回は、話を再び軍法会議に戻します。日本軍軍法会議の人権擁護規定の変遷について。

軍法会議法以前

今までの記事でも触れた通り、1922年4月1日施行の陸軍軍法会議法/海軍軍法会議法では、常設軍法会議と特設軍法会議が規定されています。
特設軍法会議は、上訴なし、弁護なし、非公開という、世間一般の軍法会議のイメージ(暗黒裁判)に近いものでしたが、常設軍法会議では二審制、弁護人あり、原則公開と、当時の一般裁判所と同等とまでは言えなくとも、一応は被告人の人権擁護が考慮されてました。

とはいえ、軍法会議に最初からこのような人権擁護の規定が盛り込まれていたわけではありません。
軍法会議法施行までの軍法会議は、陸軍治罪法/海軍治罪法で規定されていたのですが、そちらでは全ての軍法会議が上訴なし、弁護なし、非公開となっていました。
軍法会議法によって、オール暗黒裁判だった軍法会議に、(一応)人権擁護の光が差し込んだわけですね。

しかし、控えめに言ってもクソったれな人権意識が高いとは言い難い日本軍で、このような人権擁護規定が盛り込まれたことは不思議に思えないでしょうか。
そんなわけで、日本軍の分際で人権保護に傾いた改正に至った経緯を追ってみようというのが今回の主題となります。

軍法会議の目的

本題に入る前に、まず、軍法会議の目的について少し。

以前の記事で、

近代以降の軍隊では、「軍事司法」が軍の秩序や規律維持に重要な役割を果たしてきました。軍隊の規律維持において、将校の指揮命令権限は極めて重要なものですが、その実効性を支えるのが軍事司法です。 軍刑法と軍法会議は、その軍事司法の中核をなすものとなります。

【日本軍】軍法会議を(ちょっとだけ)知ろう【軍事司法】 - Man On a Mission

なんて書きましたが、これだけだと、なぜ一般の裁判所ではなく軍法会議が必要なのかわかりませんね…。
今さら感が凄いのですが、軍法会議の目的を述べておきましょう。

それが本当に有効なのか適切なのかはいったん置いといて、軍法会議による審理を行う理由として、一般的には以下が挙げられます。

  1. 軍隊や軍人の違法行為は迅速に処理する必要があること
  2. 軍隊の自律性を確保する必要があること

項番1については、裁判に長期間を要しては軍律保持の目的が損なわれるとか、証拠や被疑者、証人確保が作戦行動に支障をきたすおそれがあるとされています。前者については、違法行為の処断が速やかに行なわれないと士気の阻喪を招き、ひいては指揮命令関係が保持できなくなるということです。

項番2については、軍事組織が定めた規律に違反したものを、組織自ら処罰して統制を維持するというものです。
軍事刑事事件には、一般刑事事件と比して特殊性があり、一般刑事裁判所の裁判官では、その特殊性への対応が難しいといわれることが多いです。
法律の専門的な知識に加えて、軍事に関する専門知識を有する者でなければ、公正に審理できない、という理屈ですね。

ともあれ、軍法会議は、国の刑事裁判権およびその裁判手続きと、軍の特殊性との調整の産物と言えそうです。

陸軍治罪法/海軍治罪法による軍法会議

明治維新以降、日本は西欧先進諸国の諸制度を参考に近代国家建設を推し進めたわけですが、軍事においてはフランスの影響を強く受けることとなりました。
軍法会議」という呼称もフランスの「Conseil de guerre」に由来しており、また、当時の軍司法関係者には、ナポレオン帝政下で元帥だったマルモンが執筆した「軍制要論」が影響を与えています。

ちなみに、軍制要論では、軍人に対する裁判は軍の裁判所で行うこと、裁判機関の構成および手続きは法律で定めること、訴訟手続は出来る限り通常裁判所の手続きと一致させることとされています。

日本では、1872年に陸軍裁判所が置かれ、その後、1883年3月に陸軍治罪法、1884年3月に海軍治罪法が制定され、これに基づく軍法会議が設置されました。
陸軍治罪法/海軍治罪法では、軍人軍属の犯罪は、戦時平時を問わず、かつ、一般刑法・軍刑法いずれの罪においても、全て軍法会議で裁判する制度となっています。
訴訟手続の全権は、部隊の長たる司令官に付与され、また、上訴なし、弁護なし、原則非公開でした。
なお、前回も少し触れましたが、陸軍治罪法制定直後から被告人の人権を保護する規定に欠けていた点が批判されています。

軍法会議法の制定

1907年、改正された一般刑法が発布され、合わせて、改正軍刑法も翌1908年に制定されました。
前回も触れましたが、第24回帝国議会の陸軍刑法/海軍刑法改正審議では、将来の訴訟法改正に際して被告人に対する弁護権や上訴権の付与を条件に協賛したい、とされています。
これは、衆議院で花井卓蔵が、軍人に対して上訴権を与え、弁護人を付する意向はないのか、と質問したことに端を発していました。
花井は、一般の刑事訴訟法改正に際しても、被告人の人権擁護を訴え続けており、これと同様に、軍法会議法の制定においても人権擁護を要求したことになります。

花井はこの後も、陸海軍当局を追求し続け、軍法会議法の制定に重要な役割を演じることとなりました。

1914年、花井は「軍法会の公開及弁護権上訴権に関する質問主意書」を提出します。
その内容は、軍法会議の公開制、弁護権、上訴権を認めるのか、法改正の進捗はどうなっているのか、軍人以外が軍法会議に列することを認めるのか等を問いただすものでした。
この質問書では、上記質問に併せて、さらに「海軍軍人収賄事件ハ重要問題」なので、海軍治罪法の一部改正をもってしても軍法会議を公開すべきである、という意見が含まれていました。

「海軍軍人収賄事件」というのは、シーメンス事件*1を指しています。
こうやって揺さぶりをかけたりしてたわけですね。

1914年11月、陸軍治罪法海軍治罪法改正案共同調査委員会が設置されます。
同委員会は、陸軍次官の大島健一中将が委員長を務めていますが、貴族院衆議院からも司法関係議員が参画していました。花井もきっちり参加しています。
同委員会は、1914年から1919年7月まで4年6ヶ月にわたって審議を行ないました。

被告人保護についての軍側の抵抗は続いたものの、最終的に、概ね常設軍法会議については上訴あり、弁護人あり、原則公開となります。

花井を始めとする在野法曹界が主張した透明性確保等の人権擁護規定は、その背景に、大正デモクラシーがあるものと考えられますが、軍側にはほとんどそういった感覚はありませんでした。
委員会における議論では、軍側委員が、裁判官も弁護人と同じく法の代弁者なので弁護人は不要!ハイ論破などという無茶苦茶なことを言ってたりします。

その後の軍法会議

不完全ながら人権擁護規定が盛り込まれた軍法会議法ですが、その後は、改悪の一途をたどることとなりました。

太平洋戦争開戦後の1942年、公正な審判に寄与すべく身分保障が設けられていた法務官が、文官から武官となって身分保障を失い、軍人として「統帥の要求」に飲み込まれることとなります。

1944年には、戦局悪化により軍法会議の迅速性が重要性を増し、内地の各軍に臨時軍法会議が特設されることになりました。これにより、高等軍法会議を除く常設軍法会議はすべて閉鎖されます。すなわち、一審制・非公開・弁護なしの軍法会議となるわけですね。
また、特設軍法会議においては、予審官、検察官についても兵科将校を充ててよし、となりました。

さらに敗戦間際の1945年。
法務官に欠員をきたすことが多くなった陸軍は、特設軍法会議においては、兵科将校および各部将校をもって、本来、法務部将校を充てるべき裁判官中の法務官職につかせ得る、とします。
全員素人裁判の誕生というわけですね。

最後に

さて、これで日本軍の軍法会議について概要程度は語れたのではないかと思います。
長かった…。

などと言いつつ、いろいろ足りない点があるのは相変わらずなので、正確に詳しく知りたいという方は、ぜひご自身で調べてみて下さい。

なお、まるで軍法会議の記事を書き終えたようなことを言ってしまいましたが、多分次回も軍法会議についてです。
いい加減飽きてきたとは思いますが、もう少々お付き合いください。

 

 

*1:軍需品購入にかかわる海軍の疑獄事件。事件発覚の端緒になった独ジーメンス社の贈賄のほか、「金剛」建造に際して、代理店三井物産経由で英ビッカース社との贈収賄が発覚しました。ちなみに、ドイツ語読みだと「ジーメンス」と発音する感じなのですが、日本ではシーメンスと表記されてます。