Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【軍事司法】日本軍の軍法会議:被告事件受理から判決まで【事例】

まいど、今回も軍法会議についてです。

今まで9回にわたって軍法会議の記事を書いてきました。
当初はちょちょいと2、3回書いて終わろうと思ってたのですが、どこかで道を踏み外してしまったようです。こないだは、遂に軍法会議カテゴリーまで設けてしまいました。こんなはずでは。

oplern.hatenablog.com

しかしながら、今までの記事を全て読み通された方(いるのか?)でも、おそらく、未だ、軍法会議についてピンとこない部分があるのではないでしょうか。
今まで述べてきたのは、ほとんど制度面からの話でしたので、具体的なイメージは持ちづらいかと思います。
今回は一応、そのフォロー。
日本陸軍第十軍の法務部陣中日誌から、実際の軍法会議の事例を追いかけてみます。

※第十軍法務部陣中日誌資料は、下記書籍を用いさせていただきました。

続・現代史資料 (6) 軍事警察―憲兵軍法会議

第十軍(柳川兵団)と第十軍法務部

まずは、第十軍とその法務部について少々。

第十軍

日中戦争は、1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件に端を発しますが、同年8月9日には、日本海軍の特別陸戦隊西部派遣隊長の大山勇夫海軍中尉が中国保安隊により射殺された事件をきっかけに上海でも戦闘が始まります。
これを受けて、上海派遣軍が編成され、同軍第三師団、第十一師団が上海に上陸しました。しかし、中国側の抵抗は強く、9月には第九、第十三、第百一師団も投入されることとなります。

参謀本部は、膠着した上海戦線は、正面からの力押しだけでは戦局打開できないと判断、華北から一部の兵力を抜くなどして、新たに第十軍(司令官:柳川平助中将)を編成しました。
第十軍の編成は、第六師団、第十八師団、第百十四師団を主力としています。

第十軍は、1937年(昭和12年)11月5日杭州湾に上陸しました。この方面の防備は手薄だったため、第十軍は第六師団を先頭に北方へ急進、上海を防衛する中国側の背後を衝きました。
第十軍の北上を知った中国統帥部は、西方へ退却します。日本側は、本来、中国野戦軍主力を包囲挟撃して殲滅する構想でしたが、中国側の退却により失敗した形となります。
この後、第十軍は「軍全力を以て独断南京追撃を敢行する」ことを決定しました。陸軍中央部は、当初、南京攻略を予定していませんでしたが、第十軍の独断追撃に続いて、松井中支那方面軍司令官からも南京攻略の意見具申があり、遂に大本営(11月20日設置)は南京攻略を認めることとなります。

ちなみに南京では、日本軍による大規模な虐殺・不法殺害、掠奪、婦女子暴行が起こりました。「南京事件」とか「南京虐殺事件」とか呼ばれる事件ですが、今回記事の主題ではありませんのでこれ以上は触れません。
(今回記事で取り上げる軍法会議事例は、上海南市での犯罪です。)

なお、前にも書いたのですが、南京事件に興味がある方は、変なサイトに突撃したりせず、とりあえず下記サイトをじっくりご覧になることをお勧めします。

yu77799.g1.xrea.com

少なくとも、「南京事件通州事件をモデルとした捏造」だなんて妄言を吐いてる方やらサイトやら書籍やらには、耳を貸さない方がよろしいかと。

第十軍法務部

つい話がそれてしまいました。
話を戻して、今回、事例を取り上げるのは第十軍法務部陣中日誌からですので、記録主である第十軍法務部について少し触れておきます。
時期によって若干の変遷はあるものの、第十軍法務部の構成について。

第十軍法務部は、法務官3名、録事3名、当番兵2名で構成されてました。
法務官3名のうち1名は軍法務部長で、印象的な愚痴を残していた小川関治郎陸軍法務官が務めています(12月28日付で中支那方面軍司令部附。被告事件処理のため赴任延期し1月7日に新任地上海へ出発)。

残る法務官2名は、田嶋陸軍法務官、増田陸軍法務官でした。

録事は、加藤陸軍録事、佐々木陸軍録事、亀井陸軍録事の3名です。

当番兵は、西村補充兵陸軍輜重兵特務兵、船橋補充兵陸軍輜重兵特務兵の2名でした。

被告事件の受理から判決までの事例

ここからメイン。
第十軍法務部陣中日誌より、とある被告事件の受理、取り調べ、公訴提起、公判開廷、判決までを追ってみます。

なお、この軍法会議は特設軍法会議です。
軍法会議制度については、以前の記事を参照ください。)
また、第十軍法務部陣中日誌資料については、「続・現代史資料6 軍事警察」より引かせていただいてますが、当該書籍では犯罪人の氏名が一部省略されていますのでご承知おきください。

被告事件受理と取調

1937年12月26日、法務部はとある被告事件を受理します。
以下、引用。

〈被告事件の受理〉

 被告人 第六師団工兵第六聯隊第十中隊
殺人強姦脅迫 後備役陸軍工兵一等兵 地□□□□
犯罪事実ノ概要
 被告人ハ上海南市ニ宿営中(一)昭和十二年十二月十四日夕食ノ際、飲酒酩酊ノ上海南市警備隊雑役夫支那人某宅ニ至リ同人ノ妻(二十八年)ヲ所携ノ歩兵銃ヲ以テ脅迫シ同女ヲ強姦シ(二)同月十七日昼食ノ際、飲酒酩酊シ同僚ニ名ヲ連行シテ前記雑役夫宅ニ赴キ同僚ヲ戸外ニ待タセ同人妻ヲ強姦セントシテ先ヅ居合セタル夫ヲ所携ノ歩兵銃ヲ以テ射殺シ、同人妻ヲ強姦シ(三)同日自己ノ宿舎ニ横臥休憩中ノ同僚二等兵某ニ対シ「随行スベシ若シ肯カザレバ射殺スベシ」トテ所携ノ歩兵銃ノ銃口ヲ同人ニ向ケ脅迫シタリ

 同日、小川陸軍法務官が検察官として被告人の取り調べを行ないました。
他の事件も混ざってますが、そのまま引用します。

〈被告人ノ取調〉
四、小川検察官ハ加藤録事立会ヲ以テ午後七時三十分ヨリ約二時間後備役陸軍歩兵少尉吉□□□□、後備役陸軍主計少尉岡□□外二十七名ニ対スル殺人、同教唆、同幇助被告事件ニ付被告人吉□、同岡□ノ取調ベヲ為シ更ニ後備役陸軍工兵一等兵地□□□□殺人強姦脅迫被告事件ニ付被告人ノ取調ヲ為シタリ

公訴提起

上記の事件は、1938年1月11日に公訴提起がなされます。
以下引用。

〈公訴提起〉
四、左記事件ニ付捜査報告進達長官ヨリ公訴提起命令アリ同日公訴提起
 被告人 第十軍鑿井第十中隊
殺人、強姦 後備役陸軍工兵一等兵 地□□□□

ちなみに、鑿井という漢字は「さくせい」と読み、地下水などの採取・探査のために井戸を掘ることを意味してます。

判決宣告

1938年、1月13日に公判開廷し、即日判決宣告がなされました。
以下引用。

 被告人 第十軍鑿井第十中隊
殺人強姦 後備役陸軍工兵一等兵 地□□□□
処断罪名 殺人強姦
刑名刑期 懲役四年
裁判官  前ニ同ジ
録 事  陸軍録事 亀井文夫
検察官  前ニ同ジ
求 刑  懲役五年

殺人、強姦で懲役4年だそうです。人間の尊厳も安くなったものですね。

なお、上記で裁判官と検察官について「前ニ同ジ」とされてますが、これは同日に別事件の公判開廷がなされており(当然ながらこちらも即日判決宣告)、裁判官・検察官はそちらと同じ、ということです。
一応、その事件の記述も引用しておきましょう。

 被告人 第十八師団歩兵第五十六聯隊第十二中隊
敵前逃亡、軍用物毀棄 後備役陸軍歩兵上等兵 高□□□□
処断罪名 敵前逃亡、軍用物毀棄
刑名刑期 懲役六年
裁判官  陸軍騎兵少佐 早坂一郎
     陸軍歩兵大尉 熊沢酒造助
     陸軍法務官  田嶋隆弌
録 事  陸軍録事   笹木特務
検察官  陸軍法務官  増田徳一
求 刑 懲役七年

…ということで、将校2名、法務官1名が裁判官となっています。
なお、この「後備役陸軍歩兵上等兵 高□□□□」は、上陸後に所属隊からはぐれて、以降、所属隊を追いかけていたのですが、途上で中国人婦人を強姦した上そのまま連れ回していたということです。松蔭鎮に至るものの、某将校に怪しまれて監視兵を付けられたため、処罰を恐れて逃亡。変装のため軍衣や官給品、銃の弾薬などを投棄しており、この逃亡と投棄が罪に問われました。懲役6年ということで、殺人強姦よりも罪が重いんですね。

最後に

さて、法務部陣中日誌より被告事件の受理〜判決まで追ってみたわけですが、最近、こういうのを出すと、保守だか愛国者だかな方々が、「日本軍は軍人の犯罪をちゃんと取り締まってたから南京事件は(以下バカバカしいので略)」なんてしょうもないことを言って息巻いちゃったりしがちです*1
なので、念の為、第十軍付きの憲兵だった上砂勝七憲兵中佐の「憲兵三十一年」の記述から、少し当時の状況を見ておきましょう。

南京への追撃を開始した第十軍ですが、当初の予定と異なる行動は、補給に重大な問題を抱えることとなりました。
上砂氏によれば、「第一線部隊の携行糧秣は瞬く間に無くな」ったため、勢い徴発で賄うこととなりましたが、「徴発令に基づく正当な徴発」はできず「自然無断徴用」の形となり「色々の弊害」が生じたそうです。
「色々の弊害」については具体的に示されていないのですが、例えば上海派遣軍の第三十六聯隊で当時上等兵だった山本氏によると、疲労した兵士たちが捕虜や住民を捕まえて荷物を担がせた、なんてことがあったようです。小銃まで持たせて隊長に叱られた兵もいたとかで、まあ、軍紀の乱れを誘発することとなったわけですね。

そうして、様々な事件が起きるようになるわけですが、「何分数個師団二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らず」という状況では有効に取り締まりを行えるはずもなく、また、補助憲兵の配属を申し出たものの、一兵でも多くの兵力が必要な攻撃前進中ではそれもままならないため、「僅かに現行犯で目に余る者を取押える程度」となりました。
ちなみに、この状況が陸軍中央に伝わり、時の参謀総長である閑院宮から「軍記粛正に関する訓示」が出たとか。
戦域の拡大に伴い作戦兵力も増加することになりますが、その要員は「教育不十分な新募又は召集の将校」が中心となり、そのため「思いがけぬ非行が益々無雑作に行なわれる」こととなりました。上砂氏は「わが国民の一般的教養の如何に低いかを痛感させられた」そうです。

南京事件を引き起こす素地(の一部)は、こうやって整えられていったわけですね。

 

 

*1:昨今、現実を無視して「こういう決まりがあるからxxということはありえない」と決めつけるバカファンタジックな方も増えてますが、保守だか愛国者だかに限らず、この手の方々も、同様なことを主張することが多かったりします。こういった方の多くは、自身が中立公正に「事実」を見通すことができると信じて疑わなかったりするのですが、まあ、日本は今のところまだ(一応)立憲民主主義の国ですので、何をどう思うかは自由です。