Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【太平洋戦争】沖縄戦と「スパイ」【慰霊の日】

久方ぶりの更新です。しばらく時間が取れない状況が続いており今も変わってないのですが、しかし、本日6月23日は「慰霊の日」です。

毎年の慰霊の日にはできるだけ関連する記事を書こうと思っているので、生存報告も兼ねて更新することにしました。
とはいえ、時間があまり取れないので、短めの記事となります。

慰霊の日

「慰霊の日」といっても、(残念ながら)多くの方はピンとこないかもしれません。
「慰霊の日」は沖縄県が記念日として定めているもので、1945年6月23日に、太平洋戦争における沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなんでいます。
沖縄戦の犠牲者の追悼・慰霊および平和の希求を目的として1974年に県令として施行されました。

当ブログでは、過去、慰霊の日に下記の記事を上げています。

oplern.hatenablog.com

oplern.hatenablog.com

今回は何を書こうか迷ったのですが、あまり迷ってる時間もなかったりしますので、唐突に思いついた題材、沖縄戦における「スパイ」について取り上げようと思います。
(鍵かっこ付きの「スパイ」であることにご留意ください)

沖縄はスパイ天国?

沖縄戦では、多くの沖縄県民が「スパイ」として日本軍により処刑されました。
正確な数は不明*1なのですが、事例をほじくり返すとごろごろ出てきます。
一般市民にどうしてそんなにスパイがいたのか、不思議というか不自然ですね。沖縄はスパイ天国だったのでしょうか?
本節では、どうしてそのようなことが起こったのかその背景を少し。

沖縄では、「軍の作戦に寄与」するため、招集対象外の小学生から老人までが根こそぎ動員され、陣地や飛行場建設が急ピッチで進められました。
戦史叢書「沖縄方面陸軍作戦」には「雇用賃金は支払われた」とありますが、民間会社の雇用人夫や荷車と一緒に参加した馬引き人夫以外はほとんど支払われていません。
(支払った体で、実際には戦時貯蓄に強制的に回されるなんて例もあったとか)

ついでなんで、動員について具体的な事例を一つ挙げておきます。
1944年7月、沖縄南部玉城(たまぐすく)村の農民(46歳)は、西原飛行場建設に徴用されました。
スコップ、鍬、もっこ等は持参で玉城村から毎日片道14kmを歩いて通い、朝5時に家を出て、帰宅は夜9時半という具合だったそうです。
食料もままならない中、過酷な労働により倒れるものが続出しました。
この事例では一応賃金が出たようですが「煙草銭にも足りない」程度とのことです。
1か月半で西原飛行場の作業は終わり、今度は伊江島飛行場に動員されました。ちなみに、伊江島では栄養失調とマラリア患者が続出しています。

さて、このように住民を動員して陣地やら飛行場やらを建設するわけですが、その結果、各地で日本軍と住民が混在する状況が拡がっていきました。
当然ながら、多くの住民が陣地場所等の軍の情報を知る立場となるわけですが、防諜に神経を尖らす日本軍はこの状況を受けて住民の行動を厳しく監視するようになります。
挙句、方言を使う者はスパイとして処分、なんて滅茶苦茶なことを言い出したりも。ちょっと頭がどうかしてるんじゃないですかね。
(球軍会報1945年4月9日付「軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁す 沖縄語を以て談話しある者は間諜とみなし処分す」)
上記には、まごうことなき差別意識もみられるわけですが、当時、国内では本土は一等国民、北海道・沖縄は二等国民と揶揄されており、当然ですが第三十二軍のみが沖縄蔑視・差別意識をもっていたわけではありません。
(「当時」はなんて言いましたが、今もさほど変わってないかも*2。)

ともあれ、こういった状況のなか、スパイのわけがない一般住民を「スパイ」として処刑・殺害することが頻繁に行われるようになります。

沖縄は「スパイ」地獄

では、沖縄県民が「スパイ」として処刑された事例をいくつか挙げてみます。

まず、白梅学徒隊として野戦病院へ配属されていた譜久山(ふくやま)さんの証言より。
沖縄県民の老人2名が、それぞれ芋、黒糖の行商にきたのですが、方言で商売していたことからそこに居合わせた軍医が、「スパイ」に違いないと言い出し軍曹に刀を渡して殺害を命じたとのことです。
譜久山さんは土下座して殺さないよう懇願したそうですが、結局は譜久山さんの目の前で殺害されました。

次は、米軍による暗号解読史料から。
1945年4月7日9時14分に小禄(おろく)にあった沖縄方面海軍根拠地隊司令官(大田少将)より指揮下の各部隊に発せられた暗号電文を、米軍が傍受解読したものです。以下引用*3

4月7日4時われわれは小禄地区で銃撃を受けた。それが止まったのち、那覇地域で多数のスパイ a large number of spies が捕えられた。これらの者はすべて日本人のような服装をしていた。綿のサッシュをまとっている者もいれば、軍に勤務する民間人のように変装している者もいた。今後、敵の上陸に備えて、特にスパイの侵入が頻繁になってきたので厳重な警戒が必要である

「軍に勤務する民間人のように変装」していたのではなく軍に勤務する民間人だったんじゃないかと思うのですが、さておき、4月7日時点ということなので、米軍は宜野湾(ぎのわん:那覇の北方)の日本軍主陣地に到達したばかりです。仮にこの状態でスパイ網を構築できてたとすると、米軍の万能感が凄いですね。

「スパイ」として虐殺するケースでは、疑心暗鬼とか差別意識も当然あるものの、さらに日本軍将兵自らの行為を正当化するために行われたものも多くみられます。

知念村の事例。
3月中旬、住民が部隊に納めた薪代を請求したところ「スパイの疑いあり」として殺害されました。
知念村では他にも、兵隊が豚や茶を盗んだことに抗議した住民が「スパイ」として殺害されたり、ある公の席上で、日本軍の高射砲の命中率が悪いのは一体どうした訳かと質問したら「スパイの疑いあり」として殺害された、なんて話があります。

最後に離島の例を一つ。
久米島では、海軍沖縄方面根拠地隊付電波探針隊34人が駐屯してましたが、島民に対して非常に悪質な行為を行っています。
「スパイ容疑」で次々と住民を殺害する一方で、労務提供や陣地構築への動員、食料も当然のように無償提供させていました。
同隊は、敗戦後、9月7日にようやく武装解除を受けているのですが、その直前の8月20日にも住民の虐殺を行っています。
虐殺されたのは夫が朝鮮人男性、妻が沖縄女性の一家で、鋳掛屋や屑鉄集めをして島中を回っていたためスパイのうわさが流れていました。
同隊は、まず母子3名を斬殺。夫の手足を縛ったうえ、首にひもを巻いて海岸まで引きずりました。他の子どもたちも斬殺・絞殺されています。

最後に

沖縄戦における「スパイ」の話については、他にもいろいろ書きたいことがあるのですが、今回は時間もないしこれで終わりです。

なお、沖縄戦での住民と日本軍の関係については、下記のような記事も書いてますので併せてご覧いただければ幸いです。

oplern.hatenablog.com

それでは本日はこれにて。

 

 

*1:推定数なら以前見たように思うのですが時間がないので確認できません。だれか知ってたら教えてください。

*2:余談ですが、1961年自衛隊幹部学校戦史研究資料として翻訳されたアメリ海兵隊公式戦記「OKINAWA:VICTORY IN THE PACIFIC」は、原本の「civilians=市民」や「native Okinawans=沖縄人/沖縄県民」をすべて「沖縄土人」と訳してたりします。え?日本には差別が無いって?どこの世界線の人?

*3:http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/20.500.12001/7741