Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【戦争と軍隊のイヤな話】イヤばな #5【日本陸軍のタンツボ】

少し時間が取れましたので久しぶりに普通の更新です。
今回は、戦争や軍隊におけるイヤな話を取りあげる不定期連載(のつもり)第5弾です。

本シリーズは、最近、あまりに軽々しく軍事・戦争を扱う方が目につくようになったため、戦争で何が起こるのかよくわかってないのじゃないかと思って始めたものです。
戦争で何が起こるのか/何が起きていたのか知ることを主題としており、時代・地域などにはこだわらず、とにかく戦争とか軍隊におけるイヤな話を取り上げます。なお、記事の性質上、書籍などからの引用が多くなります。

f:id:lmacs510:20181027001933j:plain

更新頻度低下の影響か、最近ただでさえ少ないアクセス数が一層低下しています。
せっかく(?)閲覧数が少なくなっているので、今回は書くかどうか迷っていた話でもしようかと思います。今なら見られてないからイケる!たぶん!

f:id:lmacs510:20181027001948j:plain

過去記事では、憲兵の拷問、沖縄戦における住民被害、イラク戦争における兵士の死傷×2を取り上げてきました。

【戦争と軍隊のイヤな話】イヤばな #1【憲兵の拷問】 - Man On a Mission

【戦争と軍隊のイヤな話】イヤばな #2【沖縄戦】 - Man On a Mission

【戦争と軍隊のイヤな話】イヤばな #3【現代の戦争:イラク】 - Man On a Mission

【戦争と軍隊のイヤな話】イヤばな #4【現代の戦争:イラク】 - Man On a Mission

今回は少し趣向を変えて、生理的な方向でのイヤな話です。

f:id:lmacs510:20181027002032j:plain

もったいぶっても意味がない程度に記事タイトルで内容がダダ洩れになってますが、タンツボが主役?となります。
この時点でだいたい予想がつくかと思いますので、苦手な方は読むのを止めてくださるようお願いします。

本題のイヤな話に入る前に、タンツボについて少々。

若い人は知らない方が多いかもしれませんし、実のところ私も実物を見たことはないのですが、名前の通り、痰を吐くための壺です。
かなり古くから存在していたようで、中国の南宋~元代(13~14世紀)に制作された漆器なんかも残ってる模様。

bunka.nii.ac.jp

日本だと、昭和の頃は駅構内とかによく設置されてたらしいのですが、平成に入る頃にはほとんど見られなくなっていたようです。
ちなみに、タンツボが駅に置かれるようになったきっかけは、1904年(明治37年)の内務省令「肺結核予防ニ関スル件」でした。
通称「痰壺条例」。

同省令では、結核が喀痰により伝染するという当時の学説に基づき、公衆の集まるところにはタンツボを設置するよう求め、タンの消毒を行い、さらには結核患者が居住した部屋、使用した物品は消毒するよう定められました。
政府予算はほとんど使われず、警察による取り締まりが中心だったということです。

「肺結核予防ニ関スル件」が制定された背景には、急速な近代化と富国強兵策の強行、産業革命の進行による結核の爆発的な流行がありました。
同省令は「痰壺条例」と揶揄されるくらい評判が悪かったのですが、その頃開催された「国際結核病予防学会」での決議を受けたもので、一応なんの根拠もなく定められたものではありません。またタンツボ以外にタンや唾を吐くことを禁じたことから公衆衛生が前進する一助となりました。

とはいえ「対策」といえるような代物ではなかったのも事実で、本格的な結核対策として1914年(大正3年)に「肺結核療養所ノ設置及国庫補助ニ関スル法律」が、1919年(大正8)年には「結核予防法」が制定*1されます。
ただし、当時は化学療法もBCG もありませんので、上記法律による「結核対策」は患者を隔離して伝染を防ぐことでした。
ちなみに、同法の成立には慢性伝染病対策という公衆衛生上の観点だけでなく、人力政策(労働力確保および兵力確保)が要因にあったことが指摘されています。

f:id:lmacs510:20181027002117j:plain

閑話休題。つい余計な話をしすぎましたが次章より本題にはいります。
今回は、日本軍で常態化していた私的制裁というか軍隊内イジメのお話。

なお私的制裁については過去、何回かにわたって記事にしてますので興味がありましたらどうぞ。

【戦争を知ろう】新兵訓練と私的制裁【日本軍】 - Man On a Mission

【日本陸軍】私的制裁の種類【新兵イビリは蜜の味?】 - Man On a Mission

【鉄拳制裁】海軍の私的制裁【海軍精神注入棒】 - Man On a Mission

【日本軍】私的制裁あれこれ【陰湿と不条理の大和魂】 - Man On a Mission

私的制裁では、海軍が陰惨な暴力をふるう傾向があったのに対し、陸軍ではよりイジメらしい陰湿なものが多い傾向にあります。
今回は、陰湿な陸軍の方。

なお、以降は延々と不快な話が続きますので、ご承知おきください。
ちなみに、今までの画像は、ナポレオン~覇道進撃~10巻より。

さあ、それでは、イヤな話を始めましょう。

タンツボで私的制裁(閲覧注意)

今回のイヤばなは、以下の書籍より。

裏表紙の内容紹介より引用。

汗と埃にまみれて、戦野を駆けまわること幾年月、その距離なんと一年で三千六百キロ。歩兵とは疲れるものなり…。下っぱ兵の身であれば、重い装備を山積みにして、泣く泣く進んだ強行軍。つのる思いは故郷のことばかり。足と根気だけがたよりの戦場ぐらしの日々を軽妙洒脱に描いた話題のイラスト・エッセイ。

1940年、著者の斎藤氏は、半年前よりせっせと醤油を飲み続けた甲斐あってか体重が激減したとのことで、徴兵検査で第二乙種となります。
ところが、甲種合格して現役入営とならずに済んだと喜んだのもつかの間、甲種合格者とほとんど間をおかずに召集されてしまいました。

1941年3月、高崎第百十五連隊に入隊した斎藤氏は、殴られたり蹴られたりビンタされたりしながら初年兵生活を送るのですが、ある外出日の夜、問題のタンツボに関わる私的制裁を受けることになります。

だいたい外出日の夜は、荒れることになっていた。なぜかというと、その日、厩とか他の勤務についていて(軍隊には代休はなかった)、外出できなかった古参兵たちが、腹立ちまぎれに初年兵にあたりちらすからである。だから、日曜日の夜は、初年兵にとっては「魔の夜」であった。

平時の日本陸軍では、日曜日や祝祭日、年末年始、陸軍始、陸軍記念日、etc、etc…に演習を休んで兵営内での休養がとられていました。
これらの休日で下士官以下で勤務に差支えのない者は、本人の希望によって外出可能でした。兵の外出時間は朝食から夕食時間までとなります。
ちなみに、初年兵が休日に初めて営外へ外出する場合は、班長が初年兵を引率する「引率外出」が行われました。

なお、斎藤氏の記述によれば、入営から戦地に発つまでの期間、日曜日の午前中はたいてい演習があり、かつ、初年兵は夕食までのんびりと過ごすこともできずせいぜい2、3時間ほどの外出だったそうです。
ともあれ、斎藤氏は以前の外出で古参兵に絡まれて嫌な思いをして以降、外出することはありませんでした。

「今日の班内当番はだれだ」
班付上等兵がこう言って、初年兵をグイッとにらみつけた。
「斎藤であります」
「班内当番はなにをするか、お前、知ってるな」
いよいよ風の吹き出す前兆である。
「班内の掃除であります」
「そうだったな。お前がよく掃除してくれたので、タンツボがお前にお礼を言いたいそうだ。早くいってお礼を聞いてこい」
上等兵は不気味な顔をしてニヤリと笑う。タンツボは銃架の下にある。私がそのタンツボをのぞくと、どうだろう、点呼前にはたしかに洗ったはずなのに、どうしたことか、もう汚れているのだ。
「お礼を言ったかな」
「……………」
私は汚れたタンツボを持って、そのまま外へ洗いに出ようとした。すると、古兵の一人が私の前へ立ちふさがった。
「洗えばそれですむと思ったら、大まちがいだぞ。おれたち古参兵さんが、外出もしないで馬のケツを洗っているときに、お前ら初年は、チャラチャラ外出なぞしくさって、たるんでるのもいいところだ!」
まずここで一発、ビンタである。

古参兵さん、超クズいっすね。
クズ古参兵さんが、こういう私的制裁を行う動機については過去記事で取り上げたことがあります。

「初年兵が古年兵に対して礼儀を失した」とか「初年兵の任務遂行が不十分と感じた」とかあれこれ理屈をくっつけてますが、まあ、普通に考えると単なるイジメや体育会系的イビリに過ぎないですね。

ちなみに、私的制裁が行われやすい時間帯は、夕食後等の班長が自室に戻った後、日夕点呼後、消灯後が挙げられます。
また、兵営内で私的制裁が行われやすい場所は、内務判、倉庫裏、洗濯洗面場、物干場、炊事場、中隊自習室、兵営の空室、教練中などでした。

「こっちへ来い」と、また上等兵に呼ばれる。
「お前のように、たるんでいる初年兵ははじめてだ。いいか、今後の教育の見せしめのために、それをひと口飲むんだ!」
「外出してうまいもん食ったから、口なおしにちょうどいいだんべ」

上等兵さん、マジゲスいっすね。
以前にも書きましたが、初年兵の三ヶ月間の基礎教育が済んでいない場合、内務班内より成績優秀な上等兵が教育掛の助手として選任されました。このゲス上等兵もその役割を充てられていたと思われます。
これを知っておかないと、続くお話がピンとこないかもしれませんので一応補足。

これを聞くと、ツボを持つ手がふるえ、吐き出しそうになった。
「こんど入った補充兵のやつらは、たるみきっているなあー。それもみんな上等兵の教育のせいだ!」
古参兵たちにこう言われて、上等兵はカッとなったのだろう。
「早くせい!」
こう言うと同時に、私の持ったタンツボを、ぐいっと私の口に押しつけた。口の中へなにが入ったか書くまでもないが、もう嘔吐のくり返しで、上等兵がなにを言っているのかもわからなかった。

上等兵さん、ゲスとかそんなレベルじゃなくてマジ〇〇でした。

過去記事でも書きましたが、実のところ、日本陸軍は私的制裁を禁止していました。
しかしながら、実情としては下級将校や下士官らは私的制裁を黙認する傾向が強く、多くの内務班では半公然に私的制裁が行われています。

シンペイサンハカワイソダネー……
消灯ラッパを寝台の中で聞きながら、その夜は涙がとまらなかった。
「ひどい目にあったなあ、だけどおかしいよなあー、点呼前にタンツボを洗ったんにー」
となりの寝台から、M二等兵が小声で私に話しかけてきた。
しかし、そんな詮索はもうどうでもよかったのだ。私は、こんな野蛮な初年兵いじめが横行している高崎十五連隊(当時は百十五連隊)に失望したのである。
子供のころから親しみ、連隊歌まで知っていた郷土の連隊が、一歩なかへ入ればこんなとこだとは……。私の長い兵隊生活で、このことは思い出すたびに胸がむかむかする事件であった。
あのとき、タンツボをむりやり私の口に押しつけた上等兵の名はいまも忘れないが、軍隊という狂った組織の中で、彼もまた狂ってしまったのだろうか。

最後に

さて、今回は生理的にイヤな話を取り上げてみましたがいかがだったでしょうか。

余談というか以前の記事でも書いたのですが、陸軍刑法には「陵虐の罪」が規定されており、上官が職権を濫用して部下に対して残虐または苛酷な行為を行った場合には同法で裁かれるものとされていました。
しかし、私的制裁の大多数は職権行使とは何ら関係のない「一時の憤激」からなされるものと解釈され、私的制裁に「陵虐の罪」が適用されることはほとんどなかったようです。
陸軍法務中佐であった菅野保之は、私的制裁を取り締まる規定が、一般刑法の「暴行及び傷害の罪等」しかないのは不備であると指摘しています。

さて、このまま終わると後味が悪いので、口直し的にさらなる余談。結核について。

結核の死亡率は、1910年にピークに達し(結核死亡率230:10万)、その後緩やかに下降しだすのですが、1918~19年に世界中を襲ったインフルエンザ、いわゆる「スペイン風邪」により結核の発病が促されることになり、死亡率低下は頓挫することになりました。
このインフルエンザがなかった場合と比較すると、5.7万人が結核で過剰に死亡したと推定されます。
その後はまた緩やかな下降傾向となりますが、ところが、1931年からは満州事変~日中戦争~太平洋戦争と続く戦時体制の影響で、急激に死亡率が上昇しました。1948年頃には戦時体制前の水準に戻るのですが、この期間の結核過剰死亡を、1920年~30年の低下傾向の延長からのずれとして計算すると46万人に達します。
戦争ってのは、こういうとこにも影響が出るわけですね。

えー、まったく口直しになってない感じですが、もう諦めて今日のところはこの辺で。

 

 

*1:同法附則により「肺結核療養所ノ設置及国庫補助ニ関スル法律」は廃止されました。