Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【日本陸軍】結核vs日本軍【感染症】

前回記事は、戦争や軍隊にまつわるイヤな話を取り上げるシリーズ記事の第5弾でした。

oplern.hatenablog.com

上記記事では、少し結核について触れています。

結核は、結核菌により主に肺に炎症が起きる病気です。
戦前戦中の日本では「国民病」や「亡国病」といわれるほど猛威を振るい、死因順位の首位を占めることの多い病気でした。

結核の高い罹患率・死亡率は軍事上も問題となり、特に人力政策(労働力確保および兵力確保)の面で重大視されます。兵力の減少と生産力の減少が同時に起きてしまいますので、当然ですね。総力戦においてはなおさら。

戦時においては特に罹患率・死亡率を低く抑えたいところですが、1931年の満州事変から日中戦争・太平洋戦争と続く戦時体制下では、逆に死亡率が劇的に上昇しました。
森亨氏の推定によれば1944年には死亡率が10万対241となっており、これは、日本結核史上のピークである1918年の10万対257に次ぐものです。

今回記事は、上記を踏まえて日本陸軍における結核への対応について少々。

結核を(ほんの少しだけ)知ろう

結核は「結核菌」という細菌による慢性感染症です。
主に肺で発病しますが、肺だけでなく、リンパ節、脊椎、腸など、身体の様々な部分で発病します。

結核の感染は、ほぼ100%吸入感染によるもので、これには空気感染(飛沫核感染)や塵埃(じんあい)感染があります。

飛沫核感染は、結核患者の咳やくしゃみ、会話をした時などのしぶきに含まれる結核菌を吸い込むことで感染します。
空気中に放出された結核菌は、飛沫核(結核菌を包む粘液の水分が失われ裸の状態になる)となって空気中に飛散し、これが周囲の人に吸い込まれます。
吸い込まれた結核菌は、簡単に体の中に取り込まれるわけではなく、気管支粘膜の線毛の働きにより送り戻されたりするのですが、この防壁を突破して、肺の奥深くまで届き肺胞に定着すると感染が成立します。

塵埃感染は、病原体に汚染された土壌や床から舞い上がった埃を吸い込むことで感染するものです。地面に落ちた飛沫核などが、ゴミやほこりと一緒に空気中へ舞い上がり、これを吸い込むことで感染することになりますが、その頻度はまれなもので、ほとんどは飛沫核感染によるものということです。

さて、上記のようにして結核菌に感染するわけですが、感染したもの全員が発病するわけではありません。発病するのは10人に1~2人程度と言われています。

結核菌が肺に入って増殖を始めると、肺にはまず軽い肺炎のような変化が起きます。また、同時に肺のリンパ節の腫れなどが現れますが、これらの変化は軽いので、たいていは気づかれません。
ある程度の抵抗力がある人間では結核菌に対する免疫がつくられ、出来かかった病巣は治り結核菌は抑え込まれます。
しかし、結核菌は肺の中で抑え込まれた状態で冬眠状態に入り、そしてなんらかの要因で体の免疫力が低下した時には、再び活動しだして発病します。
このような発病は感染後2年以内に起こりやすいのですが、長い場合は何十年も後に発病することも。大正から昭和初期に結核菌に感染し、これが今になって発病するというケースが高齢者に多く見られます。
(なお、初期感染の時点で免疫が低下している場合や吸い込んだ菌が非常に多い場合には、初期の病巣がそのまま進行して発病することもあります)

結核の症状は、咳、痰、血痰、喀血、発熱、食欲不振、胸痛、背痛、肩こり、全身倦怠などなど多様です。
病気が進行すると、最後には肺の組織が破壊されて呼吸が困難になったり、他の臓器の機能が冒されるなどして生命の危機を招くことになります。

予防法としてはBCG接種が代表的ですが、感染したことが分かった人は、発病を防ぐための薬を服用する(潜在性結核感染治療)などがあります。
前回記事でもふれた通り、1919年(大正8)年に「結核予防法」が制定されてますが、当時はBCGもなく*1、同法による「予防」は患者を隔離して伝染を防ぐことでした。

結核の治療には、外科療法と薬剤による化学療法がありますが、現代ではほとんど化学療法となっています。
なお、戦時中の日本における結核治療法は、外科療法および大気安静療法でした。

…と思ったより長くなってしまいましたが、ざっとこんなところでしょうか。
次章より日本陸軍結核への対応について。

ULTIMATE BATTLE 結核vs日本軍

章タイトルはこれのオマージュです。
満州事変~日中戦争・太平洋戦争の戦時体制下では、特に20~24歳の男性の結核死亡率が爆発的に増加しました。
これは、軍需産業の拡充や陸海軍兵力の増大に伴い、工場や軍隊内での集団感染が拡大したことが原因の一つです。また、軍隊での過酷な生活も大いに影響していると考えられます。
結核は、陸海軍の人的資源枯渇に一役買っていたわけですね。

この状況について、1939年3月25日に開催された陸軍結核予防規則制定委員会で、三木良英陸軍省医務局長が、日中戦争以降「陸軍の結核性疾患に因る除役者」が26,000名に達しこれは1個師団の兵力に相当すると憂いを述べています。また、陸軍省医事課長の鎌田調も同年6月10日の口演にて、筋骨薄弱及び結核性疾患が徴兵検査における丁、丙種*2増加の主因となっていると指摘していました(日本軍兵士)。

さて、その結核について陸軍がどう対処していたかというと、主に早期発見と患者の隔離でした。

結核に限りませんが、軍隊で感染症が発生すると瞬く間に感染が広がる可能性が高いため、その予防には力をいれなければなりません。
しかし、結核の症状は咳、血痰、喀血などを除くと、疲労や精神的ストレスによる身体変化と区別しづらいものが多く、本人が自覚できなかったり周りからも判断が難しかったりと、発見しにくいものです。
そのため、日本軍は入隊時や定期的な身体検査による結核感染者の発見に努めていました。問診・視診の他、ツベルクリン検査や喀痰塗抹検査、レントゲン検査などを用いています。

ちなみに、1941年度の徴兵検査の際には受検者の半数に、1942年度には受検者のほとんど全員に対してレントゲン検査が行われたそうです(日本軍兵士)。

身体検査で結核の疑いあり、とされると入院させられ部隊から隔離されました。
また、結核患者が発生した部隊では、患者の居室や使用物品などの消毒が行われます。消毒方法としては焼却、煮沸消毒、蒸気消毒、薬物消毒がありました。
(時間と興味のある方は、アジ歴で陸軍結核予防規則などご覧ください。)

なお現代と違って、結核患者の治療法は、「大気・安静・栄養」に努めるという大気安静療法が中心です。
また場合によっては、外科療法として虚脱療法も行われました。これは肺を縮めて病巣部の安静を保ち、かつ病巣に通ずる気管支を閉鎖して治癒の方向へ進ませるものです。

ちなみに、1939年には軍事保護院が新設され、その下に傷痍軍人結核療養所が各地に置かれました。結核傷痍軍人が入所し、大気安静療法などの加療を受けています。
既に結核療養所として運営されていた村松晴嵐荘なんかも軍事保護院の管掌下となりました。

最後に

さて、日本陸軍結核への対応をざっと見てきました。日本軍の分際で意外なことに今の政府のコロナ対応と違って結構ちゃんとやってますね。
とはいえ十分な対応が出来たかは、地域・時期によって大きな差がありそうです。
また、太平洋戦争の逼迫に伴い、これらの措置は棚上げされ、有名無実化が進んでいくことになりました。

そういえば、米陸軍軍事情報部の戦訓広報誌Intelligence Bulletinでは、日本軍の医療について「厳格なる軍人精神のおかげで、ささいな訴えは軍医の注意を引かない」「ささいな病気は兵士が自分で治療することを求められ」「結核の高い発生率の理由となってい」て、さらに「発見されたときには病状がはるかに悪化している」なんて論評されてたとか(日本軍と日本兵)。

なお、戦後の日本では、1951年に結核予防法が全面改定されて以来、近代的手段の導入・普及が進められ、かつて10万対700程度だった罹患率が、2018年時点で10万対12.3となっています。劇的に減少しましたね。
上記により、結核は過去の病気だと思われがちなのですが、現代においても重大な感染症の一つです。2019年の日本での結核発病者は14,460人、結核による死亡者は2,088人でした。集団感染も頻繁に発生しています。

ついでにいうと、先に挙げた2018年の結核罹患率10万対12.3ですが、これは低蔓延国の基準とされる10万対10に届いていません。
他国と比較すると、ベトナムの116、中国の52などアジア諸国よりは低いものの、ドイツの6.2、アメリカの2.6など欧米先進諸国より高い状態となっています。

以下、余計な余談。
日本陸軍結核患者を隔離する方針を取りましたが、これを逆手にとって兵役を逃れようとするものも現れました。

歩兵第一連隊および工兵第一連隊が補充兵の入隊時に実施した身体検査の際、肺結核にかかったことがあるとか肺結核患者だとか言って、診断書やレントゲン写真を持参して受診を申し出るものが多数いたため、医務室がその応対に忙殺されたそうです。
しかし、別の機会に歩兵第一連隊のこれらの者について胸部レントゲン検査を行ったところ、大多数には認められる所見がなく、軍務についても問題のないものだったとか(日本軍兵士)。

ちなみに兵役逃れについては、過去に記事を書いたことがありますのでよろしければどうぞ。

oplern.hatenablog.com

それでは本日はこれにて。

 

 

*1:BCGワクチン開発は1921年、日本に持ち込まれたのは1924年で、BCGワクチンによる組織的な結核予防はさらに後のこととなります。

*2:丁だの丙だのというのは徴兵検査における区分で、いずれも兵士に向かないとされたものです。詳しくはこちらをご参照ください。