Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【太平洋戦争】続・沖縄戦と「スパイ」【慰霊の日】

久方ぶりの更新です。
まだまだクソみたいな状況が続く昨今ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか……などと書くと、コロナ禍のことかと思われるかもしれませんね。
それも含まれてはいるんですが、どっちかというと某J党政権という人災*1のことを指しております。長いね。

さておき、本日は6月23日。「慰霊の日」です。
「慰霊の日」は、沖縄県が記念日として定めているもので、1945年6月23日に、太平洋戦争における沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなんでいます。
沖縄戦の犠牲者の追悼・慰霊および平和の希求を目的として1974年に県令として施行されました。

本ブログでは、毎年の慰霊の日にはできるだけ関連する記事を欠くことにしています。
なので、相変わらずまとまった時間が取れない状況が続いているものの、今年も無理して?更新することにしました。

なお今まで「慰霊の日」に上げた記事は以下の通りです。

2018年

oplern.hatenablog.com

2019年

oplern.hatenablog.com

去年の記事では沖縄戦における「スパイ」について書きました。

oplern.hatenablog.com

鉤かっこ付きの「スパイ」であることがポイントで、本当のスパイの話ではありません。沖縄戦において、日本軍将兵がなんの根拠もなく一般住民を「スパイ」として処刑・殺害した事例を挙げたものです。

今回記事は、記事執筆の準備期間もなければいい感じのネタも思いつかなかったので、前年に引き続き、沖縄戦における「スパイ」のお話です。

渡野喜屋事件

沖縄戦では、多くの沖縄県民が「スパイ」として虐殺されました。
数多くの事例が見られますが、控えめに言っても「スパイ」と断定する根拠は無いに等しく、普通に考えるとスパイのわけがない一般住民が「スパイ」として日本軍により処刑・殺害されたものばかりです。
中には、処刑は免れたものの、日本軍の拷問により心身に傷を受け戦後も長く苦しまれた方もいます。

これら事例の中から、今回は渡野喜屋事件について触れておきます。

渡野喜屋事件は、1945年5月、大宜味村渡野喜屋(現、白浜)集落で、日本軍敗残兵が避難民男性らを捕らえて山中で斬殺し、また老幼婦女子4、50人を虐殺した事件です。
事件を起こしたのは宇土部隊の国頭支隊通信隊(東郷少尉隊長)でした。

事件は、同通信隊の藤井兵長と松尾兵長の二人が、渡野喜屋対岸にある塩屋の民家に入り込んで米軍に捕まったことがきっかけで引き起こされます。

兵長は、塩屋集落に入り込んでいる避難民の情報を得るため、有銘北部で出会った少年の案内で塩屋に向かいました。
塩屋の民家に入り込んだ二人は、現れた米兵数名に捕まり連行されることとなりますが、通信隊はこれを避難民のスパイ活動によるものと決めつけます。
通信隊は、両名が米軍に処刑されたと判断。東郷少尉を中心に、両名の霊を弔うため「スパイ」集落を襲撃する計画を立てました。

事件の舞台となる渡野喜屋には、当時、米軍によって連行された避難民の一時収容所がつくられていました。
避難民は読谷山村、浦添村、那覇市などの住民だったそうで、約90人が暮らしていたようです。
(なお、渡野喜屋の地元住民は山中に避難しています)
収容所といっても米軍の監視はほとんどありませんでした。
事件の被害者の一人である仲村渠(なかんだかり)美代さん(当時28歳)の証言によると、5月10日に米軍に捕まり渡野喜屋に連れてこられたものの、米軍は缶詰や粉状にした卵など数日分の食料を与えてその場を去ったそうです。

5月12日午前3時ごろ、渡野喜屋の避難民集落は、10人ほどの日本兵の襲撃を受けます。
日本兵らは、住民に銃剣を突き付けて起こして回り、男性3人を連行し「処刑」します。
また、残った老幼婦女子ら避難民家族4、50人を広場に集め、手榴弾を投げつけて虐殺しました。
(米軍資料では、住民35人殺害、15人を負傷させたと記録されています。)

先述の仲村渠さんの証言によれば、虐殺の前に日本兵は「敵の捕虜になってそれでも日本人か」と怒鳴りつけたといいます*2
榴弾を投げつけられたとき、仲村渠さんは、とっさに着ていた半纏を長女(4歳)・長男(2か月)にかぶせて押し倒したそうです。
運よく生き延びることができた仲村渠さんが家に戻ると、高齢の男性が柱に縛られて殺されており、また、家にあった食料は全て持ち去られていました。
なお、日本兵が連行した男性3人のうちの1人は、仲村渠さんの義父である仲村渠仁王さんでした。

さて、襲撃してきた日本兵は、もちろん国頭支隊通信隊だったわけですが、この事件については同通信隊に従軍した森杉多兵長が証言を残しています。
兵長自身は大腸炎で衰弱していたため、視力が減退していた下野上等兵とともに留守番となり「スパイ」集落襲撃には加わらなかったものの、連行されてきた3人の男性のうち1人の「処刑」を実行させられました。
1人目、2人目は剣道四段という曹長が「処刑」したものの、3人目の若い男を連れてこられると根をあげて、もうできないと訴えます。
(なお、1人目が仲村渠仁王さんであったと考えられます。)
これを受けて東郷隊長が「森兵長か下野上等兵がいい」といったため、森兵長が「処刑」を実行することなりました。
兵長は「病人にやれというのか」と反抗するものの、ついに銃剣で若い男の胸を突きます。

こうして避難民を「スパイ」として虐殺した通信隊ですが、ところがその後、事件のきっかけとなった藤井兵長と松尾兵長が戻ってきました。
兵長は、米軍に捕虜として丁重に扱われていたものの、ジープで名護の収容所へ移される途中、米兵の隙をついて脱走、通信隊に戻ってきたということです。
これは、通信隊が避難民を襲撃した根拠の明白な消失を意味していました。
ちなみに、米軍での両兵長の対応には日本語の巧みな二世兵が充てられましたが、この二世兵が日本軍の動向については一言も聞かなかった、という点も通信隊に衝撃を与えたようです。
通信隊の空気は重苦しいものとなり、隊から離れるものも出ました。

日本軍はどうして沖縄県民を「スパイ」にしたのか

さて、例として渡野喜屋事件を挙げましたが、沖縄戦では、沖縄県民が「スパイ」として日本軍により殺害された事例が数多く見られます。
殺害まで至らなくとも、尋問や拷問を受けたり、また、壕追い出しや食料強奪の理由としても「スパイ疑惑」が使われました。
沖縄県民が、日本軍将兵から「スパイ」との罵倒を受けたケースも多数あります。

なぜそのようなことが起きたのでしょうか?
去年の記事でも触れているのですが、本記事でも少々述べておきます。

米軍の侵攻を前にした沖縄では、陣地や飛行場建設が突貫工事で進められました。
しかし、この建設工事は、軍の人員だけでは到底行うことができない規模のもので、沖縄の一般住民も徴用労務者、青年学校生徒、女子学徒挺身隊などさまざまな名目で大規模動員されることとなります。
その結果、当然ながら多くの住民が陣地場所等の軍の情報を知る立場となるわけですが、防諜に神経を尖らす日本軍はこの状況を受けて住民の行動を厳しく監視するようになりました。
マッチポンプ的というか非常に身勝手な態度ですが、この背景には言うまでもなく沖縄に対する差別意識があります。
日本軍の文書より、沖縄に対する差別意識とそれに基づく警戒感が現れている文言をいくつか見てみましょう。

1910年(明治43年)沖縄警備隊区徴募概況

「本県に於ける軍事思想の幼稚なると国家思想の薄弱なるとは遂に徴兵を忌避し動もすれば兵役の大義務を免れんとするもの多し」

1922年(大正11年)沖縄連隊区司令部報告書

「皇室国体に関する観念、徹底しからず」「軍事思想に乏しく、軍人と為るを好まず」

1934年(昭和9年)沖縄連隊区司令部 沖縄防備対策

「優の最大なるは事大思想なり」「事大思想は日本の強大と共に総てを大和化せるも之と同時に一時的にせよ現実に来たる強圧に対し厳として必ず操持すと誰が保証し得し」

なんというか、今の沖縄ヘイトにも共通するクソ野郎極めて身勝手な価値観が根底に見えますね。

日本軍がむやみに沖縄県民をスパイ視した原因には、他にも、第三十二軍を編成した部隊の大部分が国外で侵略戦争を行ってきた部隊であったことも挙げられます。
敵領土である中国の戦線において、日本軍は住民のすべてが潜在的なスパイであるとみなすこととなりますが、この戦訓は日本であるはずの沖縄にも適用されました。
その根底にも沖縄蔑視があるわけですが、ともあれ、第三十二軍は、敵領土の住民同様に沖縄県民すべてを潜在的なスパイとみなしていたといえるでしょう。

上記を背景に、疑心暗鬼になった日本軍は無軌道な県民虐殺を行うようになるわけですが、この県民「スパイ」視は、時には日本軍将兵の行為の正当化のために使われることもありました。
去年の記事でも触れてますが、知念村では部隊に納めた薪代を請求したら「スパイの疑いあり」とされて殺害されたとか、日本兵が茶や豚を盗んだことに抗議したら「スパイ」として殺害されたという事例があります。
住民の食料を奪うため、「スパイ」容疑をかけるケースも多々見られ、食料を差し出すことを拒む住民は「スパイ」として殺害し食料を強奪することも。
さらには、米軍に敗れた原因を、沖縄県民がスパイを働いたから、などと滅茶苦茶な責任転嫁をする者もおり、これはデマとなって日本各所で広範にまき散らされました。
疎開先で、現地住民から沖縄県民がスパイを働いたとなじられたケースも数多く見られます。

また、当時の「防諜体制」では、沖縄県民も「スパイ」摘発の活動に組み込まれ、沖縄県民同士で「スパイ」嫌疑をかけることも珍しくありませんでした。
知らない人や、初めて見る人が、道を歩きながらメモを取っているような場合には、地域住民に対して、スパイとして捕らえるように指示が出ています。

日本軍から差別意識を持たれていた沖縄県民ですが、沖縄県民自身も朝鮮出身者や他地域出身者に対して排外的な行動をとることがありました。
去年の記事で取り上げた久米島における事例では、日本軍が朝鮮人夫と沖縄人の妻の一家を「スパイ」として虐殺していますが、現地住民も「朝鮮人だから」という理由で「スパイ」視しています。

スパイは実際にいた?

さて、ここからはついでの余談です。
誰とは言いませんが、実際に沖縄でスパイが暗躍していたと主張する方がおられますので、その点について少々。
某氏の主張の内容は、大要以下の通りです。

沖縄戦では実際にスパイが存在していた。
沖縄出身のハワイ二世およびサイパン島など出稼ぎ中の沖縄人の一部が、米軍の諜報要員として訓練を受けて、潜水艦からの上陸や偵察機からの落下傘降下で潜入、諜報活動を行っている。
諜報活動中、数名が逮捕されており、取り調べたところ、小型無線機などを持ち、左手薬指には「USAT6」などの入れ墨があった。スパイには女性もいた。
この事実にも関わらず、この点に触れた書は見当たらない。

えーっと、既に都市伝説臭がプンプンしちゃってますが、とりあえず、「ハワイ」「サイパン」「潜水艦で上陸」「女スパイ」というのは、当時の沖縄でまことしやかに囁かれた「スパイ話」の典型的なパターンです。
「スパイ話」のパターンとしては、他にも「米艦艇に懐中電灯/手鏡で信号を送る」、「電話線を切る」、「壕を覗いて回る」なんてのがあります。

某氏は「沖縄では実際にスパイが暗躍していたので、軍の警戒心が高まり過剰な防諜意識をもたらした」という感じで、日本軍をやんわり擁護したいのだと思われますが、せっかく、そういう話を持ち出してこられてますので、沖縄県の特別援護室長などを務めた浦崎純氏のエピソードも見てみましょう。
浦崎氏は、真壁(現糸満市真壁)近くで体験したことを「沖縄かく戦へり」に書いています。以下引用。

 私たちが洞窟へ降りようとしているところに、先ほどの部隊長が現れた。県庁も軍に協力してくれというのである。何事かと聞くと、彼は赤鉛筆で書かれた書面を見せた。それにはこう書かれていた。
 「この付近にスパイが潜入している。沖縄出身の妙齢婦人で、数は四、五十名ほどと推定される。彼女らは赤いハンカチと小型手鏡をもっていて、陰毛をそり落としているのが特徴である」
 部隊長は、まじめな顔でその書面を私たちに見せると、スパイ逮捕に協力してくれといった。気が狂っているのかと思ったが、態度は真剣だし、くりかえし重要な部隊情報であることを説明したので、気はたしからしかった。
 それでも馬鹿馬鹿しいので取りあわずにいると、彼の顔が険しい表情に変わった。気味悪くなった私たちは、そうそうに洞窟を飛びだした。

上記関連して、沖縄戦で陸軍に従軍した渡辺憲央氏の証言を挙げておきます(三人の元日本兵と沖縄 読谷村史 第五巻 資料編4)

あの当時ね、壕の入り口を徘徊する沖縄人があったらそれを調べろという命令があったんです。あとね、「女で手鏡をもっている者がおったら、それ調べろ」という命令だったんですよ。手鏡で信号を敵に送ると言ってね。マンガみたいでしょう、でも本当よ。そんな注意事項が回ってきておったのよ。「気をつけろ」と。上からそんなこと言ってくるんだから、下っぱの奴はそれを信用するんですね。

沖縄戦研究家の大城将保氏は、某氏の主張の論拠が「北海タイムス」1965年の連載記事「七師団戦記/「ああ沖縄」/戦没一万八十五柱の例にささぐ」などの記事を参照したものと推定しています。
「ああ沖縄」では、

岩陰にかくれて沖の米艦船に懐中電灯で信号を送っている男を見つけて取り押さえた、沖縄出身でハワイ生まれ、潜水艦から上陸してきており、左手薬指に「USAT6」という入れ墨があった、その後、小型無線機で通信していた19歳の女性を捕まえたが、ハワイ生まれで同じように左手薬指に入れ墨があった

なんて話が載っています。なるほど、左手薬指を確認すればスパイを識別できそうですね。これはみんなにも教えたほうがよさそうです!!

……まあ、その、なんだ、「陰毛を剃った女スパイ」にはおよびませんが、控えめに言っても到底鵜呑みにできる内容ではないと思います。

なお、1950年代はじめに、軍人軍属遺家族援護法を米軍統治下の沖縄にも適用するため沖縄戦の実態を調査した報告書に、スパイ嫌疑について触れられている箇所があります。
この報告も結構な差別意識が見られるのですが、まあそれはさておいてスパイ嫌疑の部分について見てみましょう。

 第六節 住民の通敵行為について
 敵上陸以後、所謂「スパイ」嫌疑で処刑された住民についての例は十指に余る事例を聞いているが、従来から沖縄に居住していた住民で軍の活動範囲内で敵に通じたものは皆無と断じてさしつかえないと思う。

留保条件が多いのですが、まあ、スパイ活動について否定的な見解ですね。

ついでに日本軍の資料からも。

「怪信号弾の件 一、七月以降沖縄本島方面に出所不明の信号弾に関する情報多々あり軍は其の出所を探査中の所十月中旬―――下旬の間憲兵隊の異常なる努力に依り何れも星光、月光、友軍飛行機の翼灯航空機誘導灯、友軍信号灯(弾)、自動車前照灯、ランプ灯、焚火、魚光等を誤認せるものと判明せり」(参謀部陣中日誌案 昭和十九年十一月一日)

他に、第三十二軍残務整理部が戦後まとめた沖縄作戦でも「沖縄人間諜の潜入説等宣伝せられしも」「之が確証を挙ぐるに至ら」なかったとしています。
ついでのついで。第三十二軍高級参謀であった八原博通氏は「沖縄決戦」にて以下のように書いています。

「スパイ」事件はときどきあった。二世が潜水艦や落下傘で、沖縄島に上陸して活動しているとか、軍の電話線を切断する奴とか、そしてこの女スパイのように火光信号をもって敵と相通じるとか。しかしこれまで真犯人はついぞ捕らえられたことはなかった。

「スパイ」嫌疑のために多数の沖縄県民が虐殺されたり、殺害までには至らなくとも多大な被害を被ったりしたわけですが、それを踏まえて上記を見ると、ふざけんなよテメエらなんとも味わい深いですねクソが。

最後に

さて、去年に引き続いて沖縄戦における「スパイ」の話を取り上げてみました。
なんの根拠もない「スパイ」嫌疑により、多くの沖縄県民が被害を受けましたが、さて、これらに対しての責任はどのように取られたのでしょうか。謝罪はもちろんですが、補償などの対応も日本政府が行ったのでしょうか?
日本軍による沖縄県民「スパイ」視で被った被害について、どのように責任がとられたか?その答えは「なにもしてない」です。
前述の森兵長などは戦後遺族へ謝罪していますが、わずかにこういった個々の活動があるだけで、日本政府はいかなる責任も取っていません。

日本政府が米軍以外に「思いやり」を見せることはほぼありませんので、まあ、多くの方には見当がついたのじゃないかと思います。

さておき、そんな日本政府が最近、新たな弾圧ツールを手に入れようとしています。

ryukyushimpo.jp

日本国民には、なぜか日本政府が国民のために活動するものだと信じてる方が少なくないので、上記も適切に運用されるものだと思われているのかもしれません。
本日記事の本題からは外れてしまってますが、太平洋戦争開戦前1941年3月7日に公布された国防保安法についての石橋湛山の指摘の一部が、そのまま土地規制法にも当てはまりそうなので引用しておきます。

この法案はいかなる意味においても最も重大なる非常時立法だ。第一は解釈の範囲が広くなっていることだ。この法律を政治的に利用しないことは、当局者側がくり返しいっているところだ。しかし、一度び法律が実施されれば左様なる誓約はなんらの価値もない。

クソみたいな状況が続いている昨今ですが、日本ではこれからもクソみたいな状況が続くのでしょうね…などと最後に余計なことを吐き捨てつつ、本日記事を終わります。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

「沖縄人スパイ説」を砕く

沖縄の戦世―県民は如何にしてスパイになりしか

 

 

*1:前政権も現政権も決して日本国民の利益を目的に動いたりはせず、むしろ真逆のことばかりしているのですが、なぜかそれを支持しちゃう日本国民(容認する方も消極的な支持に回っているといえます)により引き起こされた人災です。この人災により最近は治安維持法に匹敵するポテンシャルを持つ国民弾圧ツールも出てきました。日本国民の皆様方におかれましてはてめえが何をしでかしているのかいい加減お気づき頂けるとよいのですが。

*2:一応の注釈。厳密にいうと住民に対して「捕虜」という言葉は当てはまりません。ただし、沖縄戦当時、住民が米軍に保護されることも「捕虜になる」と言っていました。まあ、あまり気にする方もいないと思うのですが一応。
ついでの余談。避難民が米軍から食料を供給されたことも、宇土部隊の敗残兵には許しがたい行為と捉えられていたようです。米軍に投降した住民が食料を受け取ることは、当然なが
ら糾弾されるような行為ではありませんが、このことも事件が引き起こされた一因と考えられます。なんともろくでもないですね。