Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【広島・長崎】原爆の日に上げられませんでした【保障法制】

ここしばらく、めっきり更新頻度が落ちている当ブログですが、ついに、可能な限り原爆についての記事を書こうと思っていた8月6日、8月9日のいずれも更新できないという事態になりました。
(まとまった時間が取れませんでした…)

更新できなかったからといって誰に迷惑をかけるわけでもなく、私の自己満足の問題に過ぎないのですが、それでも今回は一応の自己フォロー記事です。
とはいえ、結局あまり時間が取れない状況は変わっていませんので、雑記程度の記事となります。原爆の医療的被害の保障法制を中心に。

なお去年の原爆の日に上げた記事は以下の通り。

oplern.hatenablog.com

oplern.hatenablog.com

原爆の医療的被害の保障法制

最近、「黒い雨」訴訟について、国が最高裁への上告を断念しました。
8月2日からは、原告への被爆者健康手帳の交付も始まっています。

www3.nhk.or.jp

上告断念はかなり「政治的」な理由によるものと思われますが、ともあれ一応の決着ですね。

先に述べた通りあまり時間もないので、本記事では「黒い雨」訴訟の詳細については触れません。
(詳しく知りたい方は、他サイトを探してください…)

しかしながら、Web上の関連記事をざっと見た感じだと、原爆被害に対する保障法制についてはあまり触れられていないように思えたので、その点だけ少し補足的に取り上げたいと思います。

現在の原爆による医療的被害の保障法制は「被爆者援護法(原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律)」となります。
同法は1994年12月に制定、1995年7月より施行されたもので、1957年制定の「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」、1968年制定の「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」を一本化したものです。

原爆投下当時の広島市長崎市の区域内、または隣接する区域内に在った者、原爆投下の際またはその後に身体に原爆の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者、その者の胎児であった者で、被爆者健康手帳の交付を受けたものは、被爆者援護法の保護を受けることができます。
被爆者健康手帳は、申請によりその居住地の都道府県知事が交付します。
今回の「黒い雨」訴訟は、黒い雨で健康被害を受けたにもかかわらず、国が定めた援護対象の区域外のため手帳の交付申請を却下されたのは違法だとして、広島県内の84人が市と県に処分取り消しを求めたものでした。

さて、被爆者援護法の援護内容としては、健康管理、医療、手当等の支給、福祉事業が挙げられます。
少し具体例を挙げると、健康管理としては、都道府県知事が被爆者に対し毎年行う健康診断や指導。
医療の給付については、診察、薬剤の支給、手術その他の治療、病院または診療所への入院など。こちらは厚生労働大臣によるものとなります。
福祉事業は、都道府県による、心身の健康や日常生活に関する相談、その他被爆者の援護に関する相談に応ずる相談事業、ホームヘルパー派遣やデイサービスなど居宅生活支援事業、施設入所による擁護事業があります。

過去の被爆者援護

…とここまでは現在法制のお話でしたが、ここらで当ブログらしく(?)過去にさかのぼって被爆者の医療的支援を見てみましょう。

先に述べた通り、現行の被爆者援護法の前身は1957年制定の「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法)」なわけですが、では、それより前はどのような救済措置が取られていたのでしょうか?

実のところ原爆医療法の前には、原爆被害者に対する特別な措置はありませんでした。
戦時災害については、1942年制定の戦時災害保護法という法律があり、同法六条では、救助の種類として「医療及び助産」を規定しています。

広島・長崎においても、同法による救助が実施されました。
ところが、同法の施行規則には「救助を為すべき期間は二月以内に於て地方長官之を定む」とあり、同条但し書きでは延長が可能とされていたにも関わらず10月には戦時災害保護法による救助が打ち切られています。

以降、原爆医療法が施行されるまで、被爆者医療に関しては原則自己負担、あとは生活保護法の医療扶助によることとなりました。

以前の記事でも書きましたが、戦後しばらくは支援も行わずに放置していたわけですね。
まあ、昨今の政府のコロナ対応を経験された日本国民の皆様におかれては、さほど意外には感じられないかとは思います。
(一部のバカ政府擁護者を除く)

ついでに、医療的支援以外についても簡単に触れておきます。

原爆による所得的な喪失については、同じく戦時災害保護法により10月までは適用されました。その内容は、生活扶助、医療扶助、出産扶助、生業扶助です。
その後は、しばらく放置され、1968年に制定された「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」でやっと各種特別手当等が支給されることとなります。
なお、軍人・軍属が原爆により被害を受けた場合については、1952年「戦傷病者戦没者遺族等援護法」による援護が行われました。
(遺族年金の形での所得保障)

もう一つ。住宅や家財の滅失、財産的被害について。
これらについては、戦時災害保護法により給輿金の形で補償されるという建前になっていました。
ところが、原爆被害の甚大さと状況の混乱、さらには10月に戦時災害保護法が打ち切られたことから、私的財産の補償はほとんど行われていません。

最後に

原爆被爆者は必ずしも国内に居住しているわけではなく、韓国・北朝鮮・北米・南米など日本国外に暮らす「在外被爆者」が存在します。

在外被爆者は、日本に滞在している期間を除いて、長いこと被爆者援護法の対象とされていませんでした。
しかし、1967年の韓国原爆被害者援護協会の発足など、在外被爆者の援護を求める運動が大きくなり、2001年の大阪地裁判決を契機に、被爆者健康手帳等の交付申請や治療のための渡日に必要な旅費等の支給や、出国後の諸手当支給などがなされるようになります。

ところが、2016年に国が提訴時点で死後20年以上が経過すれば請求権が消滅する(除斥期間)と主張を始め、在外被爆者遺族の訴えを退ける判決が相次ぎました。
さすが、人道とか人権という概念がすっぽり抜け落ちている日本ですね。

ちなみに、市場淳子氏の「ヒロシマを持ちかえった人々」では、朝鮮人被爆者は広島市約5万人、長崎市約2万人で、そのうち被爆死者は広島市約3万人、長崎市約1万人、「全被爆者の約1割が朝鮮人であった」と指摘しています。

朝鮮人被爆者では、広島での死亡者割合が6割、長崎での死亡者割合が5割に達するのですね。
同書では、日本人被爆者の語りが原爆が炸裂した瞬間から始まるのに対して、朝鮮人被爆者の語りは、なぜ自分が広島/長崎に居合わせていたのかを語るところから始まる、との指摘があります。
これは、植民地支配下での困窮や強制連行により広島・長崎へ渡ることとなった背景を持つことを意味しており、日本の加害性の自覚を促すものといえるでしょう。

なお、広島原爆の被爆者である米澤鐵志氏は、広島市朝鮮人被爆者の年内死亡率が日本人と比較すると2倍ほどになることを指摘されており、原因として、被爆後に逃げ出す先もなく残留放射能の渦巻く市内で生活せざるを得なかったからではないかとしています。