最近の記事にて、インパール作戦、「大和」沖縄特攻についての記事を書きました。
これらは、ほぼ成功見込みがないことが分かっていたにもかかわらず強行された作戦です。
で、こういった作戦が実行される際には、極めて「個性的」なキーマンがいることが多いです。
インパール作戦では牟田口廉也、「大和」沖縄特攻では神重徳といった個性派が主導していました。
旧日本軍はこの手の個性派を多く抱えており、まさに多士済々といった有り様だったわけですが(悪い意味で)、本日はその中でもマジ○○屈指の個性派、陸軍の辻政信(つじ まさのぶ)大佐について触れたいと思います。
ただし、仮にも1人の人間をブログの一記事で語りつくすのは難しいので、辻という人間を掘り下げるのはいつかの機会にまかせ、今回は簡単なプロフィールといくつかのエピソードのみ取り上げたいと思います。
ゲームで言うと体験版みたいなものです…ということで記事タイトルにも「体験版」と入れさせて頂きました。どうでもいいか。
辻政信 プロフィール編
姓は辻、名は政信、渾名は作戦の神様*1。
明治35年(1902年)生まれ、没年は(法的には)昭和43年(1968年)となっています*2。
石川県で、炭焼きで生計を立てる家に生まれ、大正7年(1918年)陸軍幼年学校に入学。その後、陸軍士官学校、連隊勤務を経て、陸軍大学校。
幼年学校、士官学校、陸軍大学はいずれも優秀な成績で卒業しています。
太平洋戦争が始まった時の階級は中佐で、途中で大佐に昇進して終戦を迎えました。
(ちなみにノモンハン事件の頃は少佐でした。)
陸軍大佐といえば、歩兵連隊長*3をつとめる階級ですが、辻は参謀畑の人間であり、指揮官としては中尉時代に中隊長をやったくらいでした。なお、参謀にもいろいろありますが、辻の軍歴のほとんどは作戦関係の参謀です。
軍人 辻政信
昭和7年(1932年)の第一次上海事変で中隊長として出征した以降は、参謀本部員、関東軍参謀、陸大教官、参謀本部作戦班長などを歴任し、終戦時には第18方面軍参謀でした。
ノモンハン事件や、シンガポール戦、ガダルカナル戦などでの作戦指導が知られています。
前述の通り、軍歴のほとんどを作戦参謀としてつとめていますが、その作戦指導は強気というか極めて強引なもので、乱暴な点が目につくものです。
実情を無視した作戦が多く、この点については牟田口とも通ずるところがあります。
作戦課の同僚による、「立案した作戦が失敗しても、トライアンドエラーだなどと言って平然としていた」との話もあり、人間的な情の感じられない人物であったようです。
さらには、越権行為を行なうことも多く、また、偽の命令を出すことすら何度かありました。
このような人物であったにもかかわらず、皮肉なことに辻に心酔するものも多かったようです。
理由として、足繁く現場に赴いて最前線の人間らと会話したことや、上司に対して直言することを憚らなかったことなどが指摘されています。
(「上司への直言」については、人気取りだろうと言う人もいます。)
また、極めて一直線な性格*4のためか、滅多に逡巡・躊躇することが無く、その点が「つよいりーだー」的な捉えられ方をした部分もあるのでは無いかと思います。しかしながら、こういった人物の下す判断は、実情からかけ離れたものとなることも多いのですが…。
さておき、プロフィールはこれくらいにして、エピソード編に移りましょう。
辻政信 エピソード編
辻の行なった作戦指導を中心に、いくつかのエピソードを簡単に取り上げてみます。
ノモンハン事件
ノモンハン事件は、日中戦争開始2年後、太平洋戦争の2年前に起こった、ソ連軍との国境紛争です。
(形式的には、満州国とモンゴル(外蒙古)間の国境紛争。)
ノモンハン事件の際、辻は極端な強硬派であり、紛争拡大に一役買うことになります。具体的には第23師団長に対し独断越境攻撃を迫って"脅迫"したり、参謀本部からの中止命令を握りつぶしたりと、やりたい放題でした。
ちなみに満州国駐屯の関東軍は、国境紛争では妥協せず積極的に作戦する司令官通牒を発していましたが、その通牒を起案したのも辻だったりします。
マレー作戦
マレー作戦は、太平洋戦争初期のマレー半島・シンガポール島の攻略作戦です。
主敵である英軍の防衛体制の不備と作戦指導の拙さに助けられた面はあるものの、このマレー作戦自体は評価が高いです。
しかしながら、それだけでくすぶっている様な辻参謀じゃあないシンガポール占領後、抗日分子であると判断した者を大量に処刑した華僑虐殺事件を企画・指導し、6000人にのぼる犠牲者を出します。
ポートモレスビー陸路攻略
昭和17年(1942年)5月の珊瑚海海戦で米空母2隻を撃沈したものの、作戦目的であるポートモレスビー(東部ニューギニア南岸)攻略を果たせなかった日本は、第17軍に対してポートモレスビーを陸路攻略できないか調査研究を命じます。
調査研究では、陸路攻略だとスタンレー山脈を踏破する必要があり、補給上、実現不可能という結論が出ました。
しかし、ここでも辻中佐が登場。7月15日にポートモレスビー陸路攻略の大本営陸軍部命令書を、百武晴吉中将に手渡します。
これは、実のところ偽の命令書でした。
百武中将はこの偽命令を受けて、7月17日、指揮下の南海支隊にポートモレスビー攻略命令を発します。
その後、7月25日には大本営作戦課長の服部卓四郎大佐から調査研究結果の問合せがあり、その時に辻の偽命令が発覚します。
しかし、なぜか偽命令は撤回されることなく、南海支隊のポートモレスビー攻略は実施されます。その結果、約5000名が、オーストラリア軍の攻撃と飢餓により犠牲となりました。
これは、辻と懇意であった服部が、辻をかばって上司の作戦部長(田中新一中将)を説得したためだといわれています。
ちなみに、辻は東京帰還後に「ポートモレスビー攻略は航空兵力が不足しているので延期すべき」と杉山参謀長に報告、南海支隊全滅時には田中作戦部長の責任であるように言いふらしたとか。
人肉食事件
昭和19年(1944年)、辻は北ビルマ防衛にあたっていた第33軍参謀となっていました。
この時、辻は英米捕虜を殺害し、その生肉を食べたといいます。さらには、部下にも食べることを強要したとか。
戦犯指名からの逃亡
さて、そんな縦横無尽な悪行活躍を見せてきた辻ですが、敗戦を迎えると、僧形に身をやつし逃亡します。
今までに述べたような活躍の結果として、BC級戦犯指名を受ける可能性が極めて高かったためです。
戦犯指定解除となる1949年まで、潜伏は続きました。
なお、この時の逃避行について、辻は後に「潜航三千里」という本を書いて毎日新聞社から出版します。
余談ですが、戦犯指名され死刑判決を受けた武藤章中将*6は、日米交渉成立に熱心だった自身が戦犯とされたのに、陸軍主戦派トリオの田中新一、服部卓四郎、そして辻政信が見逃されたことについて、巣鴨プリズンで「見当違いの人選」とぼやいていたそうです。
地下でくすぶっている様な辻じゃあない
さて、のうのうと社会復帰した辻は、前述の「潜航三千里」の人気(になっていたのです…)をかって1952年10月に衆議院議員に当選します。
さらに1959年6月には参議院議員に当選しました。全国区第3位だったとか。
失踪
参議院議員当選の2年後、1961年の4月。
辻は40日の休暇を申請して、東南アジア旅行に出ます。
その後、ラオスに入ったという情報を最後に、行方不明となりました。
昭和44年(1969年)、家族の失踪宣告請求により家庭裁判所から辻の死亡宣告が出され、法的には昭和43年(1968年)7月20日付けで死亡となっております。
主な参考資料
本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。
太平洋戦争の意外なウラ事情