Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【太平洋戦争】その後の甲標的【特殊潜航艇】

前回に引き続いて、今回も特殊潜航艇「甲標的」について。
前回とかぶるところもありますが、まずは甲標的の概要から。

日本海軍は、太平洋上での艦隊決戦において母艦から発進して敵艦隊を邀撃する、小型の潜水艇、「甲標的」を開発していました。
特殊潜航艇「甲標的」は豆潜の異名をもち、例えば最初の甲型では全長23.9m、排水量46tという小ささで、電気モーターで駆動しバッテリーが切れると動けなくなります。航続力は最微速(6ノット)でも80海里(150km)程度、外洋での航行能力は無いため、決戦海面への移動は甲標的母艦*1により運搬される想定となっていました。
甲標的は本来、事前に甲標的母艦から発進して予定決戦海域に潜伏し、艦隊決戦において魚雷による奇襲攻撃を行うというものです(魚雷2本を搭載)。しかしながら、実際には艦隊決戦の機会は訪れることなく、港湾襲撃などで使用されました。

この甲標的は、太平洋戦争開戦劈頭の真珠湾攻撃にも参加するわけですが、それについては前回記事で取り上げています。

oplern.hatenablog.com

真珠湾攻撃では5隻の甲標的が投入され、そのうちの2隻が真珠湾内に突入成功したといわれていますが、不明な点が多く戦果ははっきりしていません。
甲標的真珠湾攻撃のみならず、その後も港湾攻撃や港湾防備、哨戒などの作戦に投入されています。今回は前回記事のついでというとなんですが、真珠湾攻撃以降の甲標的の活躍について簡単ながらいくつか取り上げてみます。

真珠湾攻撃後の甲標的

二つの港湾襲撃

特殊潜航艇「甲標的」は、真珠湾攻撃後にも幾度か港湾攻撃任務についています。

まずはオーストラリアのシドニー湾攻撃で、こちらは1942年5月31日、出撃艇数3、戦果は宿泊艦1隻撃沈となっています。ちなみに生還者は0でした。

同じく1942年5月31日には、マダガスカル島のディエゴスワレズ港攻撃も行われています。
マダガスカル島は当時フランスの植民地でした。フランスでは、ドイツによるフランス侵攻を契機にヴィシー政権が成立していましたが、駐マダガスカル仏軍はこれを支持、枢軸国側に与しています。これに対し、連合国軍はシーレーンの関係からマダガスカル攻略を発動、駐マダガスカル仏軍との戦闘が発生しました。
この戦いには、日本海軍も潜水艦を派遣し、連合軍勢力下におかれたディエゴスワレズ港への甲標的による攻撃を行っています。出撃艇数3を予定していましたが、甲標的を搭載する潜水艦のうち1隻(伊18)が進出途上で機関故障に見舞われたため、実際には甲標的2隻による攻撃となりました。戦果としては戦艦1に損傷を与え、油槽船1を撃沈しています。しかしながら、こちらも生還者は0でした。

キスカ島防備任務

港湾攻撃ばかりでなく、甲標的キスカ島の港湾防備にもついています。
1942年7月から1943年8月にかけて艇数6が任務につきましたが、基地整備がはかどらなかったため、実際に運用されることはありませんでした。
なお、日本軍のキスカ島撤退に合わせて、甲標的および基地は破壊されています。

ガダルカナル作戦 初帰還達成

さて、戦闘のたんびに帰還者0となっていた甲標的ですが、ガダルカナル作戦において初の帰還者が出ます。
1942年11月7日から12月13日において実施されたガダルカナル島ルンガ沖の米軍泊地に対する複数回の攻撃では、計8隻が出撃しましたがそのうち5隻の搭乗員が帰還しています。
(ちなみに、戦果は輸送艦3、駆逐艦1への損傷でした。)
帰還を成し遂げられた理由としては、

  • 搭乗員の練度の向上
  • 外洋に開放された泊地のため、港湾内への侵入・脱出の必要がなかった
  • 近距離に味方陸上拠点があった(艇を処分して、搭乗員が味方基地へ移動して生還したケースがあります。)

といった点が指摘されています。

甲標的の改造(乙型丙型

1942年6月ごろから、甲標的を基地防御に使用する構想が台頭します。
前述したとおり、キスカ島では既に防備任務についてたりしますが、本格的に防御使用するための改造が計画されました。
既成の53隻から1隻を改造、1943年7月に乙型として完成します。この乙型を経て量産型の「甲標的丙型」が生産され、防御用として一定の性能を得られることとなります。
従来の甲標的甲型)はバッテリーが切れたら行動不能となりますが、乙型丙型ではディーゼル機関による自己充電装置が搭載され、水上であれば6ノットで300海里の航続力を獲得、長時間の活動が可能となりました。ただし、ディーゼル機関搭載により専門の機関兵が必要となり、乗員は3名に増えています。
余談ですが、元搭乗員の方が「待日訓練」という長時間行動訓練が大変だったと述懐されています。

「2日も3日も陸に上がらず、充電して航海して、また充電して航海して、食事は缶詰だけで……大変でしたね。」(歴史群像No108 P.145〜P.146)

フィリピン作戦 甲標的最大の成功

1944年11月〜1945年3月には、フィリピンのセブを主基地としてミンダナオ海哨戒を行っています。当該作戦では、前述の甲標的丙型が使用されました。
8隻が作戦に参加し、航行中の敵船に対する襲撃を反復的に行っています。その戦果は駆逐艦3、輸送艦6、水上機母艦1、その他2を撃沈、駆逐艦1損傷とされています。
成功の理由としては、練度の向上や支援機材や整備員などの支援体制の充実、作戦海域が内海であったため甲標的のような小型艇の行動に支障がなかったことが挙げられています。
また、上級指揮官である第33特別根拠地隊の原田司令官が、元甲標的母艦「千代田」の艦長であり、甲標的を熟知していたことから適切な作戦が実施できたことも指摘されています。

沖縄戦 甲標的最後の出撃

甲標的の最後の出撃は沖縄戦における防御任務でした。沖縄の運天港に基地を設営、拠点としています。
沖縄作戦では、当初、丙型9隻が配備されましたが、米空母艦載機による空襲により6隻を喪失してしまいます。しかし、その後、最新型の甲標的丁型」3隻が補充されました。

甲標的丁型「蛟竜」は、丙型をさらに大型化し水上8ノットで1000海里の航続力を獲得しています。乗員も5名に増え、水雷兵器ではなく準艦艇扱いを受けることとなりました。

1945年3月25日から4月5日にかけて甲標的が出撃し、その戦果は戦艦1に魚雷2本命中、巡洋艦1に魚雷1本命中とされていますが、米軍側には記録がありません。
なお、出撃した甲標的のうち2隻は未帰還となり、また、出撃寸前の空襲で1隻が沈没、1隻を出撃後の座礁で喪失しています。
4月1日には米軍が沖縄上陸を果たしており、残存2隻の4月5日の出撃を最後に、甲標的部隊は陸戦に転じます。
(4月6日に、残存していた2隻の甲標的を処分、基地施設を爆破。陸軍の宇土部隊*2への合流を試みますが、5月1日に壊滅、生存者は各個戦闘に入ることとなりました。)

最後に

こうやって見ると、ちまたでイメージされる甲標的のイメージとは異なりかなり頑張ってる感じですね。当初の帰還者0、0、0から、運用方法や機体の改良を継続的に行い帰還率を向上させ(最初が低すぎだろとツッコまれそうですが)、フィリピン作戦では(部隊規模と比すと)それなりの戦果を挙げています。
緒戦の優勢から中盤劣勢に至り、終盤では特攻作戦を開始することとなる海軍航空隊とは、逆のコースをたどった感じでしょうか。

ちなみに、甲標的は本土決戦時の水際防御戦力として丙型が75隻、丁型が110隻建造されています。幸いというべきかなんというか、そのほとんどは使用されることなく敗戦を迎えました。

 

 

*1:千歳型の「千代田」が、実際に甲標的母艦へ改造されました。ただし、実際に使用されることなく空母に再改造されてしまうのですが…。

*2:陸軍独立混成部隊第四十四旅団第二歩兵隊主力を基幹とする国頭(くにがみ)支隊。指揮官は宇土武彦大佐。