Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【酒巻和男少尉】軍神から外れた男【九軍神】

前々回にて、特殊潜航艇「甲標的」による真珠湾攻撃での「特攻」について取り上げました。

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上記記事で書いたとおり、この甲標的真珠湾突入では5隻の甲標的が出撃し全て未帰還。搭乗員10名は1人を除いて戦死しています。
この「特攻」で戦死した9名は、九軍神としてプロパガンダに利用されました。しかし、ここで宙に浮いたのが唯一の生存者、酒巻和男少尉です。酒巻和男少尉は、人事不省となったところを州兵に捕まり、太平洋戦争における日本人捕虜第1号となりました。

今回記事は、この酒巻和男少尉のその後についてです。

甲標的 酒巻艇のハワイ作戦

1941年12月6日深夜(アメリカ時間)、真珠湾口の沖に甲標的を搭載した伊24潜水艦が潜航していました。
伊24には、搭載された甲標的の搭乗員である酒巻和男少尉と稲垣清二等兵曹が同乗しており、航空部隊に呼応して真珠湾内の米艦艇群に攻撃をかけるべく出撃します。
甲標的のジャイロコンパスが故障という問題を抱えたうえでの決死の突入でした。

母船の伊24から切り離された甲標的は、潜望鏡の観測のみで湾内への突入を試みますが、真珠湾入口浮標付近で座礁、米駆逐艦に発見され砲撃を受けます。からくもこれをかわしたものの、発射管が壊れ魚雷も射てなくなり遂に真珠湾突入を断念。酒巻艇は甲標的収容ポイントであるラナイ島沖へ向かいます。
しかし、ジャイロコンパス故障下で目標にたどり着くことは困難で、たどりついたところは真珠湾の反対側に位置するカネオヘ湾でした。酒巻艇はここでもサンゴ礁に乗り上げることとなり、さらにはバッテリー切れにより行動不能となってしまいます。
酒巻少尉は、情報秘匿のため甲標的を爆破し、200メートルほど先の海岸まで泳いでたどり着こうとします。爆薬の導火線に点火し、同乗の稲垣二兵曹とともに海中へ飛び込みますが、長時間の悪戦苦闘の疲れからか意識を失い、気づいた時には海岸で米兵に拳銃を突きつけられていました。
こうして酒巻少尉は捕虜となります。

ちなみに甲標的は、導火線が途中で消えたため爆発せず米海軍にサルベージされています。この放棄された甲標的が、ベローズ飛行場背後の丘上の見張り台から州兵のキリノ・オリガリオに発見され、通報により第298州兵連隊のプライボン中尉、アクイ伍長ら数人が現場へ急行、酒巻少尉を捕まえたということです。
なお、同乗の稲垣二兵曹は、海岸にて遺体が発見されています。

その他の甲標的搭乗員

ハワイ作戦における甲標的は全艇が未帰還となりました。

もともと戦術用途で作られた甲標的は、広い洋上で短時間の作戦を想定しており、運動性能が悪く航続力も不十分でした。ジャイロコンパスの信頼性も高いとは言えず、前述のとおり酒巻艇のジャイロコンパスも故障しています。
これらの悪条件のなかで攻撃後の収容ポイントにたどり着くことは困難であり、また、収容計画も机上の計画に過ぎない現実性の低いものでした。実際には、全艇未帰還は当初から予想されていた結果だったわけです。
その後、日本海軍は、米軍のラジオ放送で捕虜となったことが判明した酒巻少尉を除く9名を戦死と認定します。

捕虜第1号

さて、酒巻少尉は捕虜第1号となり、ISN-HJ-1-M1という捕虜登録番号がつけられました。
シャフター兵営、ついでサンド島の日系民間人収容所に入れられ、8週間の間過酷な尋問を受けたようです。
第二次大戦におけるアメリカの捕虜政策は概ね寛容なものでしたが、それでもジュネーブ条約違反を疑われている点が存在し、過酷な尋問はその一つです。
酒巻少尉が詳細を語らなかったため実態は不明なものの「尋問期間にはある程度厳しい扱いを受けました」との言葉を残しています。真珠湾攻撃の遺恨からか、闇討ちを受けることもあったようです。

1942年2月、酒巻少尉は輸送船グラント号で米本土へ移送され、3月9日にウィスコンシン州のマッコイ収容所に収容されます。

九軍神

そのころ、日本では真珠湾攻撃で戦死した甲標的搭乗員9名を「九軍神」と称して華々しく報道していました。ちなみに、その栄誉を讃えて全員を2階級特進させています。
各新聞も一面トップで報道し、連日のように熱狂的に讃える記事を掲載するなど、国民の戦意高揚につとめたようです。

なお、日本ではこのころ既に、捕虜となることは恥辱であり死ぬまで戦うべき的な「捕虜観」が蔓延しており、理由・状況の如何に関わらず捕虜となることは許されない空気となっていました。
そのため、酒巻少尉が捕虜となったことはタブーとされ、一連の「九軍神」報道では酒巻少尉には一切触れられず、ご丁寧なことに、新聞発表に搭乗員集合写真を用いる際は、前列右端に写っていた酒巻少尉を消して発表しています。

余談ですが、こういった日本の捕虜観は、捕虜についての実務的な教育を妨げることとなります。陸戦法規では捕虜は階級・氏名・認識番号だけを申告する義務を負っており、他国においては兵士たちはそのように教育されて戦場へ送り出されました。しかし、捕虜となる事自体をタブーとする日本兵は捕虜となった際の適切な対応が取れず、一度口を開くと際限無く情報を漏らす例が多かったようです。

ちなみに、後には国際赤十字社を通じて酒巻少尉が捕虜となっている件が通知されていますが、日本海軍は、酒巻少尉を海軍士官名簿上で1942年3月4日付「横須賀鎮守府付(極秘)」、1944年8月31日付で「予備役」編入としています。

捕虜生活

酒巻少尉はその後、テネシー州のフォレスト、ルイジアナ州のリビングストン、再びマッコイと収容所を転々とします。当初はひたすら死を望んで心を閉ざしていた酒巻少尉も、これらの収容所で一緒になった民間人抑留者との交流もあって、フォレスト、リビングストンでは抑留邦人たちが「インタニー大学」と称した社会人学級に積極的に参加するようになります。特に宗教講話や英語について熱心だったようです。

捕虜となって1年ほどたった1942年秋、リビングストン収容所へ50人の日本軍人捕虜が収容されます。
彼らは空母「飛龍」の機関科員を中心とする一団で、機関長の相宗中佐が最先任者でした。酒巻少尉は自身の経験から、彼らが「自我の増長する無統制な集団」と化していると判断、「彼らを導いていかねばならない」と決意します。

1943年1月1日、相宗中佐以下の16名に別キャンプへの移動命令が下りますが、捕虜たちの間では幹部を処刑するのではないかとの噂が飛び交い収容所は騒然とします。
1月1日の朝には、米側も武装兵が出動して捕虜を包囲する騒ぎとなりました。しかし、この事態は酒巻少尉の活躍により収拾されます。士官で残ったのが酒巻少尉だけとなったこともあって、以降、捕虜集団のリーダーシップを握ります。
後には巡洋艦「古鷹」の搭乗員らも到着し、彼らには少佐も含まれていましたが、実質的なリーダーは酒巻少尉のままでした。

戦後

終戦を迎えた翌年、1946年1月4日に酒巻少尉は復員、11日には徳島県林町の生家に戻ります。
復員後には妻を伴って故郷を離れ、トヨタ自動車に就職しました。
捕虜第一号として有名になっていた酒巻少尉は、1947年に「俘虜生活四年の回顧」、1949年には「捕虜第一号」を著します。「捕虜第一号」はベストセラーとなりますが、その後は断筆し執筆活動を行っていません。
トヨタ自動車では輸出畑で活躍し、後にはブラジル・トヨタの社長に就任。10年在勤の後に本社に戻り引退しています。引退後は捕虜経験について語ることなく、1999年に81歳で亡くなられています。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

決定版 - 日本人捕虜(上) - 白村江からシベリア抑留まで