【太平洋戦争】ナウル残酷物語【大日本帝国】

2020/10/11追記: 某所でナウル共和国様が話題となったようで、その関係で当記事もアクセスされていたようです。
ただ、一部わかりにくい記述が誤解を招いたっぽいので、取り急ぎ脚注を追加して補足させていただきました。

ここしばらく、大日本帝国統治下の南洋群島について記事を書いてきたのですが、今回はそのおまけ的記事です。

大日本帝国委任統治領だった「南洋群島」よりさらに南、南緯0度32分、東経166度55分には、ナウル共和国という、国土面積21平方キロメートルの小さな国があります。
(独立国としては世界で3番目に小さな国。ちなみに1位はバチカン市国、2位はモナコ公国です。)

かつてはリン鉱石の採掘で栄え世界でも有数の国民所得を誇ったものの、20世紀末にリン鉱石資源が枯渇、一気に最貧国になった国、といえば(日本でも割と失礼な扱いで取り上げられたりしてたので)思い出す方もいるかもしれません。

このナウル共和国の国土であるナウル島は、太平洋戦争時、日本の統治下にありました。
本日の記事は、日本統治下で起こったナウル住民の受難について。
(というか日本が加害者なのですが。)

日本による占領までの経緯

ナウル島は1888年からドイツが領有していたのですが、第一次大戦時にオーストラリアが占領、その後はイギリス、オーストラリア、ニュージーランドが共同で委任統治にあたっていました。

第二次大戦が勃発すると、ドイツがナウルを攻撃、ドイツ海軍の仮装巡洋艦コメート」と「オリオン」がナウル沖で連合国商船4隻を沈め、さらにナウルを砲撃しています。これによりリン鉱石の積み出し施設やオイルタンクなどに損害を与えました。

その後、ナウルは参戦した日本によって占領されることとなります。
1942年8月22日、日本が駆逐艦有明」で砲撃を行い、25日に同艦乗員で編成された陸戦隊が上陸、26日にはナウル島を占領しました。
以降、ナウル島は日本の統治下に置かれます。
占領の目的は、マーシャル諸島の防衛と、リン鉱石資源の獲得でした。

ナウル占領後の日本軍

ナウル島占領後、日本海軍は飛行場を設営します。1943年1月下旬には第755航空隊の陸攻と第201航空隊の零戦が進出、索敵哨戒や防空任務に当たりました。
ナウル守備隊も置かれ、5月には12センチ7連装高角砲*1や15センチ平射砲などの火力を備えて、米軍の攻撃に対して守りを固めています。

1943年9月には米機動部隊による空襲もあったのですが、結局のところ、米軍によるナウル島攻略作戦は発動されませんでした。
地形が複雑で防備の固いナウルを攻略しても、それに見合うメリットがないと判断されたためです。

1943年11月、ギルバート諸島のマキン、タラワで日本軍が玉砕すると、それ以降、ナウルへの補給が途絶することとなります。
ナウル守備隊は深刻な食糧不足となるものの、かぼちゃを栽培したり、椰子の樹液を採取したり、漁労を行ったりして食いつなぎました。

その後、同島で終戦を迎えたナウル守備隊は、1945年9月13日、オーストラリア海軍のフリゲートディアマンティナ」にて降伏文書に調印、ブーゲンビル島の仮収容所に収容されることとなります。

ちなみに、ナウル占領目的の一つであったリン鉱石の採掘については、一応技師が送り込まれたものの結局リン鉱石が出荷されることはありませんでした。

ナウル残酷物語

さて、ここから本題。
日本軍占領下での、ナウル住民の受難について二つばかし。

その1 トラック島への強制移住

当時のナウル島人口は2000人弱程度だと言われていますが、日本軍はこの内の半数以上をトラック諸島に強制移住させました。
1943年6月〜8月、日本軍は疎開の名目でナウル人1200人をトラック諸島へ移住させます。戦局悪化の中での口減らしが目的ともいわれていますが、あまりはっきりしていません。
移住させられたナウル人たちは、海軍基地や農場で徴用されて働かせられたりもしたようです。
1944年2月、トラック諸島は米第58機動部隊の空襲を受け、以降、補給が途絶しました。このため、ナウル人たちも飢餓に見舞われることとなり、トラック島で生まれた子供23人を含む461人が死亡することとなります。戦後、帰島できた人々は移住者中の3分の2でした。なお、現在のナウルでは、ナウル帰還の1月31日は記念日とされています。また、初代ナウル大統領のハンマー・デロバートもトラック島からの生還者でした。

その2 ハンセン病患者の虐殺

もう一つ。
ナウル守備隊の第六七警備隊副長の指示により、現地のハンセン病患者39人を海上で殺害したという事件があります。
1943年7月、守備隊は「ポナペの離島の療養所に移動させる」と患者を騙してボートに乗せ、海軍船「神州丸」*2で曳航して海上に連れ出した後、同「神州丸」にてボートに砲撃を加えて沈没させました。水死を逃れた患者も銃撃により射殺しています。

この事件に関与した兵曹長と二曹は、戦後オーストラリア軍によるBC級戦犯裁判により終身刑を言い渡されました。
なお、指示者である副長は別件で死刑となっております。

虐殺を行った理由については、上記裁判の法廷にて、兵曹長が副長の発言を証言しています。発言内容は、連合軍による空襲で収容所が破壊されて患者が逃げ出したら島民が感染するかもしれない、次世代に遺伝する病気だ、というものでした。
(殺害しようという発想はともかく、副長の発言は残念ながら当時の一般的認識ともいえるものです。なお、現代においてはハンセン病は治療法が確立されており完治する病気です。また、ハンセン病の感染力は弱く、感染時期は免疫系が十分に機能していない乳幼児期で、その期間の濃厚で頻回の暴露以外ほとんど発病につながりません。もちろん遺伝病でもありません。)

ちなみに、この事件については厚生労働省の以下のページでも触れられています。
ナウルの件は、「第十七 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策」にあります。)

www.mhlw.go.jp

現在のナウル

ナウル島の現状についても少々。

現在のナウルは、冒頭で述べた通りリン鉱石が枯渇し苦境に陥っています。しかし、近年、希少化したリン鉱石の価格上昇を受け、これまで放置されていた燐酸含有量の少ない鉱石の採掘を始めており、その輸出で経済状況がやや好転しているようです。

また、奇策というかなんというか、オーストラリアに向かう難民をナウルで受け入れることで、オーストラリアからの経済援助を引き出すことに成功しました。
これに付随して難民収容所で働く外国人労働者向けのサービス業や住宅建設が盛んになっているのですが、その一方で、人権団体からは難民に対する人権侵害も指摘されています。

ちなみに、戦時中はともかく、その後は日本とほとんど接点がないと思われている方も多いようですが、実は1970年代にはナウルからのリン鉱石輸入や日本からの自動車輸出などが行われており、赤坂にはナウル領事館があったりもしました。なんと鹿児島空港には定期便も設けられています。
しかしながら、1980年代に入ると関係は後退、領事館は閉鎖、定期便も撤退してしまいました。

最後に

今となってはほとんど日本との接点が無くなってしまったナウルですが、日本はかつて多大な迷惑をかけていたわけですね。
イジメなんかだと、加害者側はいじめたことをすぐ忘れてしまうと言われてますが、日本も同様にナウルへの加害者であったことを忘れ去っているようです。
あまつさえ、リン鉱石枯渇後のナウル共和国の惨状について「面白おかしく」取り上げたりも*3
昨今、「日本人」であることを誇りとする方*4も多いようですが、そこを誇りとするなら過去に日本人がやらかしたことについて、もう少し誠実に向き合うべきなんじゃないかなあなどと思いつつ本日の記事を終わります。

 

 

*1:2020/10/11追記:四十口径八九式十二糎七高角砲のことです。記事中の書き方だと7連装みたいで紛らわしかったですね。

*2:2020/10/11追記:この「神州丸」はおそらく「神洲丸」のことで海軍の特設監視艇の方だと思われます。
神州丸/神洲丸という名前の艦船は複数あって非常に紛らわしいのですが、特設監視艇「神洲丸」が、1943年7月にナウル方面にいて、かつ第六七警備隊指揮下に置かれていたことからの推測です。
本記事のハンセン病患者虐殺については、オーストラリアで公文書を発見した林博史先生の発表を大いに参考にさせていただいているのですが、船名(神州丸)もそちらに拠っています。
推測通り特設監視艇「神洲丸」だったなら微妙に名前が異なるのですが、たぶん当たってると思いつつ断定できるほど調べたわけでもないので「神州丸」のままにしてます。

*3:私が軽蔑してやまない某氏なんかは、かつて、ナウルの名を挙げて「家に例えると、くそ貧乏長屋で、泥棒も入らない」などと揶揄したりしてました。

*4:正直、この感覚は私には理解不能なのですが…。