Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれを記録していくブログです。情報処理技術者試験の話題多し。高度試験の攻略なども。最近はやや歴史づいてます…。

【長崎 原爆の日】1945年8月9日【ソ連参戦】

前回記事は8月6日、広島の原爆の日でした。原子爆弾と広島への原爆投下についての記事を書いています。

oplern.hatenablog.com

本日は8月9日、長崎の原爆の日です。しかるに、今回記事は長崎への原爆投下について。
また、1945年の同日は、もうひとつの重大事態が発生していますので、後半はこれについても少々。
あまり時間が取れなかったので、前回以上に駆け足の記事となりますが、よろしければご覧ください。

 8月9日の原爆投下

広島に原爆が投下された3日後、1945年8月9日、B29爆撃機「ボックスカー」号より、Mk3原子爆弾「ファットマン」が長崎に投下されました。

当初、「ボックスカー」号は福岡県の小倉を第一目標としていました。
(小倉には、日本最大の弾薬工場がありました。)
午前9時ごろ、「ボックスカー」号は小倉上空に到達しますが、投下目標としていた陸軍造兵廠は断雲に覆われて目視困難でした。
(原爆の投下では目視が厳命されており、上空からの視界が確保できることが重要でした。)
「ボックスカー」号は3回にわたって爆撃コースに侵入したものの、結局は小倉への原爆投下を断念、第二目標である長崎に進路を変更します。

午前11時前、「ボックスカー」号は長崎上空へ到達。小倉と同じく、長崎上空も雲に覆われていたものの、一瞬の雲の切れ目から地上を視認、Mk3「ファットマン」を投下します。

「ボックスカー」号には、観測機としてB29「グレート・アーティスト」号が随伴していましたが*1、この「グレート・アーティスト」号には著名な科学記者であったウィリアム・ローレンスが取材許可を得て同乗していました。ローレンスは「ゼロの暁が明けた」というフレーズから始まる記事を書き、これは人類が初めて目にした原爆投下の現場報告となりました。

投下された「ファットマン」原子爆弾は、長崎駅から北西へ約2.5キロ離れた浦上盆地上空で爆発、長崎市街は爆風と熱線でまたたく間に燃え上がり、大火災を起こします。
爆風の威力は凄まじく、浦上天主堂の鐘楼ドームは、50トンの重量があるにも関わらず35メートルも離れた天主堂の北の川に吹き飛ばされたといいます。
この火災により、長崎市内の約3分の1にあたる地域が焼き払われ、また、当時の長崎市の人口27万人の内、約7万4千人が死亡しました。
長崎は、広島と同様に、熱線や放射線で重傷を負い、救いを求める多くの人で溢れかえることとなります。

なお、長崎に投下された「ファットマン」は広島に投下された「リトル・ボーイ」の1.5倍ほどの威力を持っていました。
投下地点のずれや、長崎市の地形的な特徴により、広島市よりも被害が軽減されましたが、それでもこれほどの被害がもたらされたのです。

ソ連参戦

原爆投下前、日本にはもうひとつ重大な事態が起こっていました。
8月8日、ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相は、モスクワ駐在の佐藤尚武大使に対して宣戦布告を通告します。
(日ソ中立条約は1945年4月に失効通告がなされていたものの、まだ翌年4月までは有効期間内であったため明らかな条約違反でした。)
翌9日未明より、アレクサンドル・ヴァシレフスキー指揮下の極東ソ連軍とモンゴル人民革命軍の混成軍による、満州国および朝鮮半島北部への総攻撃が開始されます。

ソ連は軍民、男女問わず攻撃を行い、それは日本人居留地も例外ではありませんでした。
開拓団民は10万人が犠牲になったとされ、また、残留孤児や残留婦人問題などを生むこととなります。

降伏した日本軍人たちの運命も過酷なもので50万人以上が連行され、シベリアなどでの強制労働につかされています。
過酷な環境と栄養失調により多くのものが死亡し、その数は約6万人といわれています。

最後に

以前も書きましたが、戦争は、それが起こった時点で政治/外交上の失策と言えます。
その失策により起こった太平洋戦争では、日本国民に多くの犠牲者が出ました。
原爆やソ連参戦の話では、直接的な「加害者」であるアメリカやソ連への散発的な批判はあるものの、概ね、その悲劇性のみが取り上げられるに留まり、本来的に問われるべき日本政府の責任について言及されることは少ないように思います。
もう少し、日本政府の責任について議論すべきじゃないかと個人的所感を挙げつつ、今日のところはこの辺で。

 

 

*1:島原爆投下においても観測機を務めていました。