Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【広島原爆の日】原爆投下の遠景【8月6日】

本日は8月6日、広島原爆の日です。
74年前の今日、広島への原子爆弾による攻撃が行なわれました。

1945年8月6日午前8時15分、B29爆撃機エノラ・ゲイ」号は、多くの通勤者が職場に向かっていた広島市の上空でMk1原子爆弾「リトル・ボーイ」を投下します。
投下された「リトル・ボーイ」は8時16分に地上576メートルで炸裂、膨大な犠牲者を出しました。

当ブログでは、2017年8月6日に以下の記事をあげています。

oplern.hatenablog.com

日本において、広島・長崎への原爆投下は、その被害の悲惨さを中心に取り上げられることが多いのですが、上記記事では、被害実態については少し触れる程度にとどめ、8月6日の原爆投下推移と、原子爆弾の基本的な仕組みを中心に置きました。原爆による惨状についてはそれなりの頻度で取り上げられてますので、あえて、触れられることが少ない面から書こうと考えたためです。

戦争被害の悲惨さは、それを伝えられた者に強い情動をもたらしますが、これは持続的なものではありません。戦争被害の悲惨さを知ることも大切ではありますが、残念ながら、知識や理屈が伴わない反戦感情というのは割と脆弱なもので、ちまたの妙な言説に惑わされて、真逆の方向に向かっちゃうことが結構あるように思います。近年は妙な言説が溢れかえる世の中になりましたので、なおさらおかしな方向に向かう人が増えるのじゃないかと危惧したり*1

そんなわけで、本日の記事は広島原爆についてですが、上記記事と同様、原爆被害から少し離れた視点で取り上げます。いわば「遠景」ですね。
原爆開発から投下に至るまでの概要と、それから、戦争犯罪としての原爆、大本営発表にみる広島原爆について。

米国における原爆開発

まずは、米国の原爆開発の概要を。

1939年8月、ドイツ支配下のヨーロッパ諸国からアメリカへ亡命してきた核物理学者の1人であったレオ・シラードは、フランクリン・D・ローズヴェルト大統領宛の書簡を起草します。
その内容は、ドイツが原子爆弾の開発に乗り出したことを告げると共に原爆の研究開発を勧告するものでした。
書簡は、アインシュタインの協力と署名を得て、ローズヴェルトのもとに渡ります。ローズヴェルトは深い関心を示し、1941年の真珠湾攻撃の時点には、すでに原爆開発における米英の協力をチャーチル英首相に提言していました。

1942年6月、原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」が、ヘンリー・スティムソン陸軍長官を最高責任者、レスリー・グローヴズ将軍を現場責任者として開始されます。
原子爆弾は3年の歳月と20億ドルの機密費をかけて完成されました。

原爆の投下まで

原爆開発の先頭に立ったのは、ドイツ支配から亡命してきた核物理学者たちでした。彼らは、ドイツを念頭に原爆開発に携わりましたが、1943年5月に開かれたマンハッタン計画の軍事委員会では、原爆第1号を日本海軍基地になっているトラック島に投下することが検討されています。同会議では、陸軍参謀長により、東京を目標とする提案もされました。当初、ドイツを想定した計画であったものが、対象を日本に移す兆しが生じていたわけですね。
なお、政府最高レベルにおいて、原爆投下の目標をドイツから日本に移す意志が見られたのは、1944年9月のローズヴェルトチャーチルの会談(ハイドパーク協定)からです。
(ただし、これは英米両政府間での合意というよりは、チャーチルローズヴェルト両者の合意であり、それぞれの政府で統一意志が定まっていたわけではありません。)

1945年4月、ローズヴェルトが急死し、ハリー・S・トルーマン副大統領が大統領に昇格しました。
トルーマンは、それまで原爆については一切聞かされておらず、大統領就任後に初めてマンハッタン計画を知ることとなります。トルーマンはスティムソンに、原爆についての検討部会(暫定委員会)を組織することを命じました。
トルーマン、ならびに暫定委員会メンバーのほとんどは、原爆の日本投下という前任者の意志に大した疑問を持たなかったようです。もはや原爆の実戦使用は「前提」となっており、暫定委員会では、実戦使用の前に原爆の示威実験を行い日本の降伏を促す、といった案も出たものの却下されました。

最終的には、広島、長崎に原爆が投下されたわけですが、この決定に至るまでのプロセスについては、今も研究と議論が続けられています。
ここでは深く立ち入りませんが、米歴史学会では、原爆投下について「戦争終結を早め犠牲者を少なくするためには必要だった/やむを得なかった」とする"正統派"、「原爆投下は不要であり、投下は日本降伏のためではなくソ連への牽制だった」とする"修正派"がおり、アメリカの公式見解では前者の立場が採られています。

なお、従来、日本においては米"修正派"に近い見解が主流だったのですが、日本の降伏にいたる政策決定過程では「原爆投下の衝撃」が重要な役割を果たした、とする見解も見られるようになりました。麻田貞雄氏が後者の代表と言えるかと思いますが、その見解の根底には、日本の敗北が決定的になっているにも関わらず降伏を決意できなかった政府に対する憤りがある点に注意が必要です。
麻田氏は、「1945年8月には日本はすでに敗北していたので原爆投下は必要なかった」という論について、軍事的現実である"敗北"と、政治的決定の行為である"降伏"を混同していると批判しています。
ちなみに、終戦時の海相であった米内光政は、高木惣吉少将に「原子爆弾の投下とソ連の参戦は、ある意味では天佑」などと言っていましたが、これについても麻田氏は、膨大な生命を奪った原爆を「天佑」などと呼ぶのは、「倒錯した論理」であり、「無感覚の極み」としています。

ともあれ、1945年8月6日、人類史上初の原子爆弾による攻撃が広島になされ、多くの犠牲者を出すこととなりました。

戦争犯罪としての原爆投下

さて、原爆投下には、当然ながら戦争犯罪としての面があります。

原爆の投下について、奇妙なことにトルーマンは、原爆の目標は軍事施設と兵士であり女性・子供ではない、とスティムソンに伝え、また、スティムソンも、民間人の命を救うというこれまでと同じ原則を可能な限り適用すべき、などとトルーマンに言っていました。
これほどの威力を持つ原爆を市街地に投下して、女性・子供を目標としないとか、民間人の命を救うとか何の冗談かと思うのですが、スティムソンにいたっては、暫定委員会で多数の労働者住宅に囲まれている基幹軍需工場への投下に同意した上、事前警告を与えずに投下するとしていました。その結果、ご存知の通り女性・子供を含む非戦闘員の大量殺傷を引き起こしています。

なお、一口に「戦争犯罪」といってもこれにはやや曖昧なところがあります。戦争犯罪はいくつかに区分して定義されたりしますが、事件当時の法的事情に絡めて、ハーグ陸戦規定などの戦時国際法規に違反する民間人や捕虜への虐待・殺害・略奪、軍事的に不必要な都市破壊といった狭い範囲を「戦争犯罪」とするケースがあります。しかし、これだとルワンダ内戦での虐殺、ナチスドイツのアウシュヴィッツなんかが「戦争犯罪」に含まれません。これらも普通、戦争犯罪とされてますので、戦時国際法規を前提とする狭義の「戦争犯罪」にこだわると、一般的イメージから結構なズレが生じうるわけですね。

さて、原爆投下については、一般的な「戦争犯罪」には当然に含まれると思われますが、過去、法廷において「戦争犯罪」と断じられています。
1950年代に起きた原爆訴訟で、広島、長崎の原爆被災者である下田隆一さんら4名の原告が、国に賠償を求めました。
原爆投下が国際法違反であるにもかかわらず、対日講和条約により日本国が国民の請求権を放棄しており、対米賠償請求が不可能となったことから、国が賠償すべきと主張したものです。

1963年12月7日、東京地方裁判所は、原告の請求を退けますが*2、原爆投下が国際法に違反するものであるかについては、無防備都市の非戦闘員、非軍事施設に対する原爆投下は無差別攻撃であり、当時の国際法からみて、違法な戦闘行為である、としました(下田判決)。

ところが、当時の黒金泰美官房長官は、判決後の記者会見で、原爆の使用を明白に禁じる国際協定が存在すれば原爆投下は違法といえるが、協定がないので違法とはいえない、などと語っています。最近(というには結構長いですが)の官房長官は酷いもんだと思っていたのですが、昔もそんなに変わらないのかもしれませんね。自民だし。とはいえ、黒金泰美は(核兵器)禁止に向かって努力すると(建前とはいえ)一応言ってましたので、やっぱり今の方が酷いかな。

原爆と大本営発表

そんな感じで国民に冷たい日本なわけですが、さておき、ついでなので広島原爆時の大本営発表についても見てみましょう。
広島市に投下された原爆により、同市所在の第二総軍司令部が壊滅し、同年末までには約20万人もの死者を出したと推定されているわけですが、大本営発表はどのような内容だったのでしょうか?

大本営報道部は、投下の翌日に大本営発表を行いました。内容は以下。

大本営発表(八月七日十五時三十分)

一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり

 「新型爆弾」なんて正体不明風に言ってますが、実は、米国側はすでに原子爆弾であることを発表していました。
大本営は、敵側の宣伝に乗せられるとか、国民の戦意を失わせるなんて言って、「新型爆弾」と濁すことにしたようです。

なお、当時の大本営発表で「相当の被害」は結構思い切った表現でした。被害を受けても「損害軽微」だの「被害は僅少」などというのが常態化していたからです。
(ちなみに、東京大空襲では被害の程度に言及することを避けています。あたり一面焼け野原となっているのに、「損害軽微」なんて矛盾極まりますからね…。)

この大本営発表を見た記者たちは、ことの重大さに気づき「これで負けたんじゃないか」と口を滑らせたものもいたそうです。これに対し発表担当の広石権三陸軍中佐は「そんなことをいうと死刑だぞ」と睨みつけたとか。

最後に

一応、今後、毎年8月6日は、可能な限り原爆についての記事を書くつもりです。

同様に、長崎原爆の日も記事を書くつもりなので、次回更新は8月9日になるかと思います。
今回は、冒頭で述べた通り、被害実態からあえて距離を取った「遠景」だったわけですが、とはいえ、戦争被害の実態についてもやはり知っておくべきではあります。
そんなわけで、次回は長崎原爆における「近景」について。たぶん。

 

 

*1:私の周辺だと、軍備増強かつ強硬路線一辺倒に向かっちゃう人が多くなりました…。私は、「平和教育の一環」として子供の頃から戦争の悲惨な画像を見せられ続けてきた世代なのですが、そういった経験を持つはずの同世代にも、ちょっとアレなことを言い出す人が増えてます。ついでに余計なことを言うと、こういった方々は、安全保障を軍事力だけの問題として単純に捉えてる人が多いようです。これらの方々から、何度か安全保障についてのウザい熱い語りを聞かされるハメに拝聴いたしましたが、その内容に、総合的安全保障とか、人間の安全保障とか、信頼醸成措置といった概念は含まれていませんでした。なんというか、時代を遡った気分になりますね…。

*2:ただし、裁判所は、被爆者が十分な救済策をとられなければならないことはいうまでもない、と述べ、しかしながら、それは裁判所の職責ではないとしています。さらには、政治の貧困を嘆かざるを得ない、とも述べています。