Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【大日本帝国】南洋群島の統治【委任統治区域】

前回記事にて、大日本帝国において委任統治区域であった南洋群島南洋諸島)についての記事を書きました。

oplern.hatenablog.com

前回の予告通り、今回はその続きです。
委任統治区域とかいうと聞こえが良いのですが、実質上は植民地であった南洋群島の統治について。

1914年から1922年(海軍軍政期)

前回記事で書いた通り、日本の南洋群島支配は、第一次世界大戦時、ドイツ領であった南洋群島を占領したことから始まります。
日本海軍の陸戦隊は1914年(大正3年)10月3日のマーシャル諸島ヤルート島占領を手始めに、赤道以北の主な島嶼に上陸、占領しました。
このため、南洋群島は当初海軍による軍政が敷かれることとなります

軍政機関としては、臨時南洋群島防備隊が設置され、司令部はトラック島に置かれました。サイパンパラオ、ヤップ、トラック、ポナペ、ヤルートの六民政区が設けられ、それぞれに守備隊が配置されています。
その後、1918年(大正7年)にトラック島の司令官の下に民政部が設けられ、各民政区に民政署が設置されることとなりました。

1919年(大正8年)、ヴェルサイユ条約*1により、ドイツは海外植民地を放棄することとなり、放棄した植民地は国際連盟委任統治とすることが決定されます。
1920年大正9年)、「太平洋中赤道以北ニ位スル独逸国属地ニ対スル委任統治条項」により、南洋群島は日本が委任統治することとなりました。
なお、この委任統治は、日本が国際連盟から脱退した後も継続されます。

前回も少し触れましたが、国際連盟規約では委任統治がA式、B式、C式の三段階に分類されています。
A式委任統治はほとんど自立しうる程度に発達している地方に対して行うもので、住民には自治を認めて早期に独立を促す段階です。
B式委任統治は独立国として仮承認を受けうるまでには発達していない地方に対して行われるものとされ、宗教など住民の独自性を最大限認めつつ、受任国とは異なる法制度での統治を行うことが認められていました。
最後のC式委任統治が、南洋群島の統治に適用された統治方式となります。こちらは住民の利益のために一定の保障を与えることを要するものとされつつも、受任国の構成部分として扱うことが認められました。
ちなみに、B式、C式の地域では受任国の国籍は付与されません。南洋群島の在来住民には日本国籍が無いので「臣民*2」ではなかったわけです。

さて、海軍による軍政は1922年(大正11年)まで続きましたが、同年4月1日から民政に移管されることとなりました。
軍政から民政への移管については海軍も積極的な姿勢を見せていましたが、この背景には日本邦人の急増に伴うトラブルの増加があります。まあ、手に負えなくなってきたわけですね。

なお海軍は軍政から手を引いたものの、パラオに在勤武官府を置き、南洋群島における影響力を保持し続けます。これは、南洋群島アメリカに対する戦略軍事拠点として重視していたためで、実際、後には軍事施設の整備などで在勤武官府が大きな役割を果たしています。
(「後に」というのは、国際連盟委任統治条項による軍事施設の建設禁止および1922年ワシントン会議で締結された「ワシントン海軍軍縮条約」により軍事基地化を禁止されていたためです。本格的な軍事基地化が進められるのは、国際連盟脱退およびワシントン海軍軍縮条約の失効以降となります。)

1922年以降(民政期)

1922年、大正11年勅令第一〇七号南洋庁官制によりパラオ諸島コロール島南洋庁が設置されます。初代長官には、文官として臨時南洋群島防備隊民政部長に就いていた手塚敏郎がそのまま就任しました。

南洋庁長官は当初内閣総理大臣の指揮監督を受けるものとされていましたが、1929年(昭和4年)に拓務大臣の指揮監督下に移り、さらに1942年(昭和17年)拓務省の廃止に伴い大東亜省の所管となります。

南洋庁には、はじめ課を置きましたが、のち内務部・経済部・交通部を置き、他に支庁・法院が置かれました。警察署は無く、各支庁が警察を兼ねています。
なお、支庁は法院のない島では民事裁判を行い、軽微な刑事裁判は即決していました。

日本統治下の南洋群島では、在来の現地住民のことを「島民」と称しましたが、南洋群島島民村吏規定により「島民」を村吏として登用することで、伝統的な政治組織を統治に利用しています。
登用された村吏は、命令や法規の伝達、徴税などに従事しました。

南洋群島では内地からの移民が右肩上がりで急増し、1930年(昭和5年)には2万人弱だった内地人*3が、1941年(昭和16年)には9万人となり、実に人口の64%を占めることとなります。
内地人の多い市街地については、南洋群島部落規定により自治体が置かれ、総代を長官が任命し、総代の諮問機関として協議会が設置されました。
協議会員は独立の生計を営む25歳以上の男子からの公選とされています。
ちなみに、内地人移民の割合は自然環境や産業構造の似ている沖縄県出身者が6割近くを占めていましたが、他には世界恐慌の影響を顕著に受けていた農村、中でも東北出身者が多かったようです。

1943年(昭和18年)11月4日、従来の六支庁制は戦時下の行政簡素化により三支庁制に再編されました。
トラックを中心とする東部支庁、パラオを中心とする西部支庁、サイパンを中心とする北部支庁が置かれています。

 

 

*1:フランスはパリ郊外のヴェルサイユにて,連合国側とドイツとの間で調印された講和条約。日本における条約名は「同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約」。

*2:大日本帝国では、国民のことを「臣民」と称していました。

*3:「内地」が何かについては、こちらを参照ください。