【大日本帝国】南洋群島の司法と教育【委任統治区域】

前回、前々回に引き続き、本日も大日本帝国委任統治領、南洋群島南洋諸島)の記事を。
今回は、南洋群島の司法制度と教育についてです。

なお、以前の記事はこちら。

oplern.hatenablog.com

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南洋群島の司法制度

以前、戦前の日本領の記事植民地の記事でも触れたのですが、大日本帝国の領土および領土に準ずる地域は、法規上、内地と外地とに分類することができました。
「内地」というのは、国家全体のために制定された法規が適用される地域で、日本本州、九州、四国、北海道、沖縄を指しています。

これに対し「外地」というのは、憲法の効力が及ばずその地域のために特別に制定された法規が適用される地域のことを指し、朝鮮、台湾、澎湖島、樺太*1、関東州、そして南洋群島が該当しました。まあ、ぶっちゃけ植民地のことを外地と言ってたわけですね。

さて、そんなわけで南洋群島には大日本帝国憲法が適用されません。民事および刑事の適用法規は、一応は内地と同様の帝国法規が適用されたのですが、現地住民以外に関係のない民事や土地の権利については慣例や旧慣習に則って処理されました。
なお、海軍軍政期(1914年〜1922年)には裁判手続が煩雑な上、官民問わず邦人側の都合次第で法が援用されることも少なくないという、現地住民に対する法的処遇が不利なものとなりがちだったのですが、民政移管後はある程度改善されることとなります。

南洋群島は高等法院、地方法院の二審制となっており(大正11年勅令第133号南洋群島裁判令)、一審はサイパンパラオ、ポナペの地方法院が、二審はコロールにあるパラオ高等法院が担当しました。各法院には検事局が附置されています。現地住民の訴訟手続については、法院が認める便宜の手続きによることとされていました。
前回記事で書いた通り、警察署はなく、各支庁が警察を兼ねています。支庁は法院のない島では民事裁判を行うほか、軽微な刑事裁判についても処理していました。

南洋群島の教育制度

お次は、南洋群島の教育制度について。

内地人については、内地と同じ学校制度が設けられました。大日本帝国では、6年制の尋常小学校が義務教育でしたが、南洋群島にも尋常小学校が設置され就学することとされています。また、官立のサイパン実業学校・サイパン高等女学院が設けられ、中等教育までは南洋群島内で受けることができました。

日本統治下の南洋群島では、在来の現地住民のことを「島民」と称しましたが、島民については初等教育機関として公学校が置かれることとなります。
公学校は本科3年とされていましたが、成績優秀者はさらに2年間の補習科に進むことができました。しかし、島民はそれ以上の上級学校に進むことはできず、最長で5年間の修業年限となります。
授業時間の半分は日本語の習得に充てられました。しかし、5年間の教育によってもひらがなが書ける程度にとどまったようです。
日本語習得以外の授業内容は、その多くが修身で占められており、日本化教育が推し進められていました。

ちなみに、南洋群島では主だった島々に神社が創建されましたが、、これら神社は次第に国家神道出先機関としての色合いを強め、島民の日本化政策の一端を担いました。日中戦争が始まる頃にはキリスト教徒である島民*2も参拝を強制されるようになります。
ついでの余談ですが、パラオ諸島コロール島には、かつて南洋神社があり、皇紀2600年(1940年)11月1日には鎮座祭が盛大に行われたそうです。なお、南洋神社の社格は官弊大社でした(戦前の神社制度についてはこちらを参照)。

 

 

*1:1943年に「内地」に編入されました。

*2:歴史的経緯によりキリスト教が定着していました。