前回、戦前日本の言論統制法である新聞紙法・出版法について取り上げています。
上記記事では、少しだけ文学作品に対しての検閲事例に触れました。
1909年、雑誌「中央公論」掲載の小栗風葉「姉の妹」が、新聞紙法違反とされたのですが、その理由については、夫をもつ妻の姦通を題材としたためではないかと推察されています。
当時の検閲では、人妻の姦通は「有夫姦」と呼ばれタブー視されていたようで、「姉の妹」は「風俗ヲ害スルモノ」として、新聞紙法第23条により発売頒布禁止となりました。
ところで、人妻の姦通描写が「有夫姦」として取り締まられたのなら、夫の姦通も「有妻姦」とかいわれて取り締まられたのでしょうか?
実は、夫をもつ妻の姦通描写は「風俗壊乱」として取り締まられたのに対し、妻をもつ夫の姦通描写については黙認されました。
ここには明白な性差別意識が見られるわけですが、新聞紙法・出版法における表現規制・検閲だけでなく、刑法にも同様の差別が存在します。
クソったれな大日本帝国様には、現在は存在しない「罪」が規定されていました。
「不敬罪」がよく知られていますが、他にも「安寧秩序に対する罪」なんてのがあります。「姦通罪」もその一つで、夫以外の男性と性交した妻は処罰されました。
今回記事は、この「姦通罪」について少々。
姦通罪
さて、1947年まで存在した「姦通罪」は、簡単にいうと、妻が夫以外の男と性的関係をもった時に、妻および相手の男(相姦者)を処罰するというものです。
なお、未亡人や内縁の妻は対象となりません。
刑罰は2年以下の懲役とされましたが、この罪は夫からの親告罪であり、必ずしも処罰されるというものではありませんでした。
また、夫が姦通を縦容(しょうよう:ゆるすこと)したときは、その告訴の効力がないとされます。もう少し具体的に説明すると、刑事訴訟法(大正11年法律第七五号)により、婚姻解消または離婚の訴を提起した後でないと告訴できないものとされており、また、再びその女と婚姻したり、離婚の訴を取り下げたときは、告訴を取り消したものとみなされました。
ついでに付け加えると、夫が、妻の姦通を知ってから6カ月経過すると、刑事訴訟法の一般原則により告訴し得なくなります。
……と、一息にまくし立ててしまいましたが、上記冒頭の「妻が夫以外の男と性的関係をもった時に、妻および相手の男(相姦者)を処罰」という箇所、妻の「姦通」については書かれているものの、夫側の「姦通」のケースについて触れられていませんね。
ここが重要なポイントで、「姦通罪」では、「姦通」した妻と相姦者は罰せられるものの、夫が「姦通」した場合だと処罰の対象にはなりませんでした。
前節にて、新聞紙法・出版法では「夫をもつ妻の姦通描写」が取り締まられたと述べましたが、こうした出版物に限らず、実際の「姦通」も刑法による処罰対象となります。
さらには、出版物で「妻をもつ夫の姦通描写」は咎められることがなかったように、現実の刑法でも夫の「姦通」は何ら刑罰の対象とはなりませんでした。
まごうことなき女性差別ですね。
とはいえ、「姦通罪」は、婚姻解消または離婚の訴が前提条件となる、夫からの「親告罪」というハードルの高さから、実際には成立しにくい「犯罪」でした。
なお、妻と相手の男(相姦者)はセット扱いとなっており、相姦者のみを訴える、なんてこともできません。
ちなみに、当時の民法にも「姦通」に関する女性差別が見られます。
当時、民法では、離婚の訴訟を起こすことができる項目が10項目挙げられていました。これら項目の中には、夫は妻の姦通を理由として離婚の訴を起こせるものとされています。しかし、妻は夫の姦通を理由に離婚の訴を起こすことはできませんでした。
(夫が姦淫罪で刑に処せられた場合なら、離婚の訴を起こすことが可能。)
なお、姦通による離婚、または姦通罪による刑の宣告を受けた者は、相姦者と婚姻できない、という規定もあったりします。
北原白秋と姦通罪
実際には成立しにくい、と述べましたが、一応、告訴された一例を挙げておきます。
明治から昭和前期の詩人、歌人として知られる北原白秋が、1912年(明治45年)に、隣家の人妻、松下俊子と関係をもった際に、その夫から告訴されました。
ただし、白秋は俊子とともに2週間勾留されたものの、結局は示談が成立。無罪免訴となっています。
前述の規定により、白秋と俊子は正式な婚姻はできないわけですが、それでもしばらく共に生活したようです。
(1914年に離別。)
最後に
大日本帝国様には、様々な男女差別規定がありましたが、実の所、明治憲法では、男女平等は謳っていませんが否定もしていません。
よって、大日本帝国における種々の男女差別法制は、憲法に端を発するものではなく、社会の性差別意識を反映したものと言えそうです。
……なんて書くと、右派というか戦前賛美派の方が、明治憲法は悪くないとかわけのわからないことを言い出すかもしれませんので、一応補足しておきますと、現行憲法では14条で男女の平等が、24条で夫婦の平等が謳われています(2019年10月6日現在)。
明治憲法では男女平等が謳われておらず、これは、国のあり様として男女平等でなくとも構わない、ということを意味してますので、まあ、現行憲法のほうが圧倒的に良い憲法だと思います。男女差別肯定派にとっては、悪夢のような憲法なのかもしれませんけどね。
閑話休題。
大日本帝国様の代表的な男女差別法制としては、女子に選挙権・被選挙権を認めないものが挙げられます。
大正14年法律第四七号衆議院議員選挙法(全部改正)により、従来の制限選挙から男子普通選挙が実現したのですが、女子の普通選挙は、敗戦後の1945年(昭和20年)まで認められませんでした。
ちなみに、翌1946年に戦後初の総選挙が行なわれ、多数の女性代議士が誕生しています。
男女差別法制には、他にも、治安警察法(女子の政事上の結社加入禁止など)、民法(財産行為・訴訟・相続の承認・家の新築・長期の賃貸借・贈与について夫の許可が必要)などがあり、選挙、政治活動、任官、財産、相続、教育、裁判といった、広い範囲で女性差別が見られました。
女性にとって不利な面ばかり強調すると、アレな方々が、偏ってるとかなんとか狂乱するかもしれませんので、ついでに女性の方が有利な制度についても触れておきます。
少ないながらも、一応は女性が有利な制度もあって、例えば婚姻するときに要する父母の同意が、男性は30歳まで必要なのに対し、女性は25歳までとされています。微妙感がありますが、有利といえば有利。
さておき、大日本帝国で最も「女性が有利」といえる制度は兵役でした。
憲法上は「日本臣民は法律の定むる所に従ひ兵役の義務を有す」とされ、男女差は表れていないのですが、法律においては、昭和2年法律第四七号兵役法「帝国臣民たる男子は兵役に服す」と定められてて、男性のみが対象となっています。先ほどの微妙感漂うものと違って、これは非常に有利といえますね。
ところが、昭和20年法律第三九号義勇兵役法では男子15歳から60歳、女子17歳から40歳に義勇兵役に服すべきことを定められました。実際に女子が義勇兵役に服することはありませんでしたが、状況によっては女性も兵役につく可能性があったわけです。
以下、余計な余談。
兵役については「女性が有利」と書きましたが、これは「愛国者」な方々にとっては、国の防衛への貢献を制限する制度であり、むしろ噴飯物といえるはずですので、一概に「有利」といってはいけないのかもしれません。
とはいえ、自衛隊の人手不足が深刻な昨今でも、あれだけ意気盛んな「愛国者」様が、自衛隊に入ったとか、予備自衛官補に志願したなんて話はさほど聞きませんので、「愛国な方を含むほとんどの人にとって有利」とか書いときゃ不都合はなさそうです。
建前と本音というのはずいぶん食い違うものなのだなあ、などと、白々しく感想を残してみたり。
なお、言うまでもないですが、現代でも、女性差別は世界的な問題として存在しています。
日本では1945年末にようやく女性に選挙権が認められたのですが、諸外国においても、女性の選挙権が認められたのは、思ったほど早くありません。
アメリカは1919年、イギリスが1928年、フランスも戦後になってからで、スイスで完全に認められたのは、なんと1993年になってからです。
人類の文明社会における到達点ってのは、未だこの程度なわけですね。まだまだとはいえ、ようやっとここまで来たわけですが、これを元に戻そうとする勢力も多かったりしますので、なかなか先に進めません。
主な参考資料
本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。
事典 昭和戦前期の日本―制度と実態
よみがえる戦前日本の全景