【大日本帝国】不敬罪を(ちょっとだけ)知ろう【旧刑法】

前回、戦前日本の「姦通罪」について取り上げました。

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「姦通罪」は、妻が夫以外の男と性的関係をもった時に、妻および相手の男(相姦者)を処罰するというものです。
(ただし、未亡人や内縁の妻は対象となりません。)
驚いたことに、この「姦通罪」は、「姦通」した妻と相姦者は罰せられるものの、夫が「姦通」した場合だと処罰の対象にはなりませんでした。
女性差別が明白に表れた「罪」だったわけです。
なお、刑罰は2年以下の懲役とされましたが、この罪は夫からの親告罪であり、必ずしも処罰されるというものではありませんでした。

さて、「姦通罪」は敗戦後、1947年の刑法改正で消え去るわけですが、この際、「姦通罪」以外にもいくつか無くなった「罪」が存在します。
例を挙げると「外患に関する罪」の一部や「国交に関する罪」の一部、「安寧秩序に対する罪」なんかがありました。
今回はこれらの消え去った「罪」の中から、最も有名と思われる「不敬罪」について取り上げます。

この男不敬につき!

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蛮勇引力より

不敬と言えば蛮勇引力ですが、それはさておき、不敬罪は1883年(明治15年)施行の刑法では第117条、第119条、1907年(明治40年)の改正*1後は第74条、第76条に規定されていました。

改正前の不敬罪

改正前の刑法117、119条を見てみましょう。変換がめんどくさいので旧字体新字体に直して書いてます。

第117条 天皇三后皇太子ニ対シ不敬ノ所為アル者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ処シ、ニ十円以上ニ百円以下ノ罰金ヲ附加ス
第117条二項 皇陵ニ対シ不敬ノ所為アル者亦同シ

第119条 皇族ニ対シ不敬ノ所為アル者ハ二月以上四年以下ノ重禁錮ニ処シ、十円以上百円以下ノ罰金ヲ附加ス

天皇やら皇族やらに対して「不敬ノ所為」があると、刑罰を食らうとのことですが、「不敬ノ所為」とやらが何を指してるのかは書かれていません。
刑法施行当時の不敬事件を大別すると、天皇の言葉、身体、親政、皇統への侮蔑がありました。例えば、詔勅を揶揄したり、天皇の行動を批判したりすると、不敬罪に該当する可能性があります。

具体的にどういった行為が「不敬罪」とされたか、施行直後の不敬事件事例から少し取り上げてみしょう。

明治の不敬罪 事例1

まずは、不敬罪適用第一号の森田馬太郎事件。
当該事件では、森田が明治15年1月5日夜、立志社で行なった演説が問題とされました。
森田は、自由民権の政治結社「修立社」の社員で、演説会の弁士として活躍しています。

問題の演説の演題は「明治十四年中最モ人心ヲ感動スル者」で、明治14年に行なわれた明治天皇の東北巡幸と、板垣退助の東北遊説を比較して、板垣の方がより強い感動を人心に与えた、と述べた点が不敬罪に問われました。
高知始審裁判所で開かれた軽罪裁判所にて有罪判決が下り、重禁錮4年、罰金100円、監視1年を科せられています。
森田はこの判決を不服として上告しますが、大審院はこれを棄却します。
不敬罪では、上告が認められていたものの実際には大半が棄却されました。)

なお、上記判決では、刑法117条に記載のある禁錮と罰金以外に、「監視」なんてのが出てきましたが、これは刑法第120条によるものです。
不敬罪は「皇室に対する罪」の一つなのですが、刑法120条では、それらの「罪」を犯して「軽罪ノ刑」となった者に対し、6月以上2年以下の監視に付すものと規定していました。
「軽罪」は、重軽の禁錮、罰金を法定刑とする罪を指してますので、不敬罪(119条)は軽罪に該当します。そのため、禁錮、罰金以外に監視がくっついてきたわけですね。

明治15年には不敬罪適用事件が頻発しているのですが、その大部分は自由民権派の人々を対象としています。多くは自由民権派の演説が問題とされたものですが、他にも新聞への投書や自由民権派同志への手紙、宴席での行為・言動が不敬罪適用となったこともありました。

明治の不敬罪 事例2

当然ながら、自由民権派以外も不敬罪に問われていますので、そちらの事例も挙げておきます。
明治16年1月31日、兵庫県神戸区の小学校教員、稲倉儀三郎が、教室で生徒の持っていた天皇の写真を取り上げ、不敬の言葉を言いつつ破り捨てたとされ、不敬罪に問われました。
稲倉の同僚の通報により、学務委員が警察に告発、検事の起訴により予審開始されますが、この時、稲倉は逃亡しており、被告人不在のまま進められたようです。
(稲倉は2月21日、和歌山で逮捕、神戸へ護送されました。)
当該事件の神戸軽罪裁判所での公判は、3月22日に開かれています。公判は傍聴禁止の裡に進められ、重禁錮3年、罰金100円、監視2年の即日判決が言い渡されました。

稲倉は、この判決を不服として上告しています。
上告理由は以下。

  • 「不敬ノ語ヲ発シタ」という証言は告訴人の「片言」のみで他の証人参考人の証言ではない。
  • 逃亡したのは、告訴を知ったためではなく、同僚の猜忌から逃れるためであった。
  • ある生徒が「婦人ノ写真」を教室へ持ち込んだため、他の生徒の読書時間他の邪魔になると考えて取り上げ毀損したもので、実際は天皇の写真だったとは知らなかった。
  • 事件は非現行犯なので、まず召喚状を発すべきなのに拘引状を発した点が違法である。

しかしながら、この上告は棄却されました。

明治の不敬罪 事例その他

他にも、雑誌への投稿で天皇家の歴史を丸薬の宣伝文句になぞらえたら不敬罪とされた(重禁錮3年6月、罰金50円、監視1年)とか、講談で天皇の前世を引き合いにして洒落を言ったら不敬罪とされた(重禁錮4月、罰金20円)とか、不敬の意図が無くても「暗に皇室を誹毀した」として刑に処される事例が見られます。

改正後の不敬罪

1907年(明治40年)に刑法改正が行なわれ、不敬罪の条文は第74条、第76条となりました。
以下条文。

第74条 天皇太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ処ス
神宮又ハ皇陵ニ対シ不敬ノ行為アル者亦同シ

第76条 皇族ニ対シ不敬ノ行為アリタル者ハ二月以上四年以下ノ懲役ニ処ス

 旧刑法の「皇室に対する罪」は、「天皇三后皇太子」「皇陵」「皇族」に対するものでしたが、改正後は「三后」が具体的に書かれたり、皇太孫が天皇や皇太子らと同じ条文に入れられたりしてます。神宮に対する不敬も追加されてますね。
さらに後年には、日記のような公開を前提としないもので天皇に言及した場合も不敬罪に該当するとされました。皇室の名誉の保護とかよりも、国民の思想・言論の自由を抑圧する面が強くなったわけです。

なお、たまに「明治憲法では言論の自由が謳われていた」なんて言う方がいるのですが、「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ」言論の自由が認められるに過ぎません(第29条)。だから、不敬罪のようにプライベートの日記まで対象とするような刑罰が出来上がるわけですね。
ちなみに、現行憲法の第21条では、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」とされてます。

閑話休題
改正によりさらに過酷なものとなった不敬罪ですが、改正後は不敬罪で検挙される事例が少なくなっています。
不敬罪の摘発傾向を掴んだ国民が上手いこと隠せるようになったのか、カルト国家化天皇崇拝が浸透したためか、はたまた、治安維持法など不敬罪より「便利」な抑圧ツールが出てきたせいなのかは分かりません。

昭和の不敬罪 事例1

一応、改正後の不敬罪に問われた事件を少し挙げておきます。

まずは、1942年(昭和17年)、政治家の尾崎行雄が、東条内閣下の翼賛選挙で不敬罪として起訴された事件。
尾崎は、東條内閣に対し翼賛選挙の中止を求め、また、阿部信行陸軍大将を会長とする翼賛政治体制協議会の推薦を受けられなかった候補者の支援を行なっていました。
東京日本橋・京橋を地盤として立候補した田川大吉郎の応援演説中、尾崎は「売家と唐様で書く三代目」という川柳を引用しますが、これが不敬罪に問われることとなります。
引用の意図は、日本の立憲政治も明治・大正を経て3代目(昭和)になると、その精神が踏みにじられて翼賛選挙となった、というものでした。
しかし政府側はこれを、3代目の昭和天皇が国を潰すと揶揄したものとして告発します。政府方針に背くものへの弾圧ツールとして使われたわけですね。
東京地裁は懲役8カ月、執行猶予2年の判決を下しますが、尾崎はこれに控訴。1944年(昭和19年)に大審院が無罪判決を下しています。

昭和の不敬罪 事例2

もうひとつ事例を。
太平洋戦争敗戦後の1946年5月19日の食糧メーデーの際、参加者の1人である松島松太郎が掲げたプラカードが不敬罪に問われます。
プラカードには、表に「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」と書かれており、裏には「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答へて呉れ 日本共産党田中精機細胞」と書かれていました。

これに先立つ1945年10月には、GHQ覚書により不敬罪は廃止の方向で決定されていましたが、実際に刑法が改正されたのは1947年です。この点が裁判の綾となりました。
検察側は不敬罪で訴追するものの、弁護側は不敬罪ポツダム宣言受諾時の天皇神性消滅、GHQ覚書により消滅したと主張。一審判決では名誉毀損罪が適用され懲役8カ月となりました。
これに対し、双方が控訴。控訴審では不敬罪は新刑法が公布されるまで消滅していない、としながらも、新憲法公布に伴う大赦令により免訴となりました。
松島は後に、「天皇天皇制の政治を批判し」て不敬罪に問われた自身が、「天皇大権の大赦令で赦免されるなんて実に滑稽ですね」と述べたそうです。

不敬罪いらない(マッカーサー

ともあれ、長きにわたって体制側が活用してきた不敬罪は、1947年、昭和二二年法律第一二四号による改正で消え去ることとなりました。
ちなみに、吉田茂マッカーサー宛の書簡で不敬罪の存続を求めてますが、その返書では「新憲法の精神と相容れない」とバッサリ切り捨てられてます。

最後に

さて、GHQによって息の根をとめられたはずの不敬罪ですが、残念ながら戦後もゾンビ化して動き続けました。
もはや刑法上には存在していないわけですが、現代に至っても「警察化」した一部国民による糾弾が「不敬罪」の機能を果たす事例が散見されます。

最近のネトウヨさんとかの話はさておきますが、1960年から1961年にかけての、短編小説「風流夢譚」を巡る事件なんかは、まさに「民間警察」によって不敬を問われたものといえるでしょう。

「風流夢譚」は、「楢節山考」なんかで知られる深沢七郎の作品で、「中央公論」に掲載されました。
主人公の「私」が、夢の中で「左慾」の革命を見に行くという話なのですが、その主題は政治的なものではありません(たぶん)。
作中で、皇室関係の人たちにアレコレがあるのですが、その部分が猛反発を引き起こし、さらに、アレな方々からの脅迫を受けることになりました。

本記事で詳細は触れませんが、宮内庁が皇族に対する名誉毀損・人権侵害とか言って法務省に法的措置の検討を求めたり、右翼団体からの抗議が激化して一部はテロを扇動したり、さらには中央公論社に対する暴力行使が起きています。

しまいには中央公論社社長宅へ侵入した少年が、家政婦を刺殺、社長夫人に重傷を負わせるという事件が起きました。
これにより、中央公論はテロの被害者でありながら、右翼に「反省」を強いられ、編集方針を変更するなど、言論の自由から後退することとなります。
また、深沢七郎は事件の影響により、しばらく身を隠して流浪の生活を送らざるを得なくなりました。
(1964年に「甲州子守唄」を発表、1965年に埼玉県に移住しています。)

なお、「風流夢譚」は上記経緯による自主規制から長く出版されませんでした。しかし、2012年に電子書籍化されており、今では手軽に読むことができます。
興味のある方はどうぞ。

個人的には割と嫌いじゃないノリで、特に、何が起きてようが辞世の歌の解説を続ける老紳士の、無敵のマイペースっぷりは好きです。

 

 

*1:1908年(明治41年)施行