【太平洋戦争】ずぶ濡れで還った妹【怪異譚】

前回、日本軍の兵員輸送について取り上げました。

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日本軍の兵員輸送では、多数の兵員が船倉に押し込められ、劣悪な環境下で移送されています。
前回記事では、その具体例として当時14歳の少年軍属だった佐藤鉄雄さんの体験を取り上げました。

今回記事は、前回の予告通り佐藤さんの話の後日談となります。

彷徨える英霊たち - 戦争の怪異譚

前回取り上げた佐藤鉄雄さんの体験は、以下の書籍より引用しています。

彷徨える英霊たち - 戦争の怪異譚

前回も書いた通り、上記はいわゆる"オカルト本"ではありません。太平洋戦争の取材において、著者が戦争体験者から聞き取った証言には不可思議なものが幾つもあったそうですが、それらを紹介するのも「長年、昭和戦争の取材・執筆に関わってきた者の務め」だと考え、書かれたものということです。

著者の田村洋三氏は、読売新聞社の記者だった方で、1975年7月から始めた長期連載「新聞記者が語りつぐ戦争」では取材班長兼デスクを務めたそうです。
佐藤さんの体験談は、この「新聞記者が語りつぐ戦争」にて紹介されたものですが、話に出てくる亡くなられた従軍看護婦について、徳島市の女性読者より便りが寄せられました。

以下、その便りの内容について取り上げます。

ずぶ濡れで還った妹

まず、佐藤さんの体験談は、14歳で少年軍属として輸送船「吉野丸」に乗り込んだものの、台湾高雄からマニラへ向かう航行中に連合軍の攻撃を受け吉野丸が撃沈したというものです。佐藤さんは、救命筏にすがりついて漂流することとなりますが、周りには同じ船団の「万光丸」という輸送船に乗っていたと思われる従軍看護婦らの遺体が漂っていました。
殿下喜和さんから寄せられた便りは、この従軍看護婦についてのものです。

「佐藤鉄雄様の記事で、南方派遣従軍看護婦を志願した私の妹・弘子の最期を教えて頂きました。戦死公報によれば、妹は『吉野丸』と日も場所も同じ昭和十九年七月三十一日、バシー海峡で輸送船『万光丸』と共に沈み、一九歳の若さで逝きました。出征時のネズミ色の夏服、長い黒髪も、記事に書かれてある通りでした。あの五人の中の一人が妹だったと確信しています。佐藤様がこの度の洋上慰霊船『さくら』で、妹達を供養して下さったことに、厚く御礼申し上げます」

洋上慰霊船「さくら」での供養というのは、ルソン島東方海上で沈んだ空母「千歳*1」から生還した元機関部下士官の渡辺守さんが立ち上げた洋上慰霊行のことを指しています。
大島運輸所属の13,000トンの客船「さくら」に、全国44都道府県から参加した遺族・戦友510人を乗せ、東シナ海から台湾海峡、香港、南シナ海、マニラ、比島南部、ミンダナオ海、スリガオ海峡、那覇と8000キロを周航して11回の慰霊祭を営みました。

殿下喜和さんも、妹・弘子さんの供養のため「さくら」への乗船を決めていましたが、出発直前に体調不良で入院することとなり、断念せざるを得なかったそうです。
喜和さんは、一男三女の長女。兄は陸軍に徴用されて昼夜兼行で兵舎造りに従事し、その過労から腸結核となり1940年の秋に亡くなられています。
便りに書かれた弘子さんは次女にあたり、高等小学校を出た後、病院に住み込みで働き、夜学に通って看護婦になられたということです。両親の猛反対を押し切って、南方派遣従軍看護婦に志願、出征されています。

〈無事に目的地へ着いたろうか。毎日、神に祈っていた夏の日の真夜中、ふと異様な気配に目覚めると、黒い影のようなものが蚊帳の中へ入ります。ハッと飛び起きようとしますが、全身金縛りになり、手も足も動きません。苦しくて苦しくて、今にも息が詰まりそうになり、渾身の力をふりしぼり「助けて」と叫ぶと、影はスゥと離れ、体が自由になりました。黒いものは、蚊帳を出ます。引かれるように後を追うと、階段を音もなく降ります。ハッとして「弘子、弘ちゃん」と呼ぶと、途中で立ち止まり、スゥと顔を上げました。薄蒼い全身、長い髪からポタポタ雫を垂らし、怨ずる様な、辛そうな、訴える様な無念の表情で、じっと見詰めます。「弘ちゃん、どうしたの、まさか……」。声にならない声で叫ぶと、大きく頷く様に頭を垂れて下へ降り、煙のように消えてしまいました。 翌朝、母も「夜中に弘子が帰って来た」と言いました。全身、びしょ濡れで玄関に立っているので「弘ちゃん、寒いだろ、早う、お上がり」と浴衣を着せて抱くと、スゥと消えていったというのです。
 もしや船が沈んだのでは……不吉な予感は現実のものとなり、戦後、公報が届きました。昭和十九年七月三十一日、バシー海峡で戦死……。
 公報に、オッオッオッと喉を痙攣させ、全身で男泣きした父は、終戦四年後に病没し、六年前、母が七八歳で逝きました。死の三日前、母は「夕べ、お父さんや弘ちゃんに会った。いよいよ最期だよ」と言い、「弘子に、お前と同じ苦しみを味わったよ、と言ってやるのだ」と病院の先生や私がどんなに頼んでも、点滴も酸素吸入も一切拒否して苦しみに耐えておりました。そして死の数分前、虫の息だった母が、天井の一角を指差し、ウオーッと叫びました。びっくりして天井を見ましたが、何も見えません。でも、私には分かりました。妹達がお迎えに来たのだと……。やがて母は、自分で胸の上で両手を合わせ、安らかに、眠る様に逝きました。〉

実のところ、私は信仰心も無ければ、心霊現象・超常現象などについても肯定的な人間ではありません。
しかし、昔々の中学生時代には不思議といえば不思議な出来事に遭遇したこともあって、こういった事象を否定しきれないと感じています。判断保留といったところでしょうか。
ちなみに、前回も書いた通り、戦争について取材する方や、戦没者の遺骨収集に携わる方は、こういった不可思議な話に出会うケースが割とあるようです。
ともあれ、こういった話では霊やらなにやらの実在論争になりがちですが、そこはいったん脇に置いといて、戦没者や遺族の思いに目を向けるのが良いのではないでしょうか。

少々脱線しましたが、話を本題に戻して、最後に便りの締め括り部分を引用します。

〈今でも一番辛い思い出は、阿波踊りです。さんざめく町の賑わい、きらめくライト。しなやかな踊り子さんの姿に、浴衣に赤いタスキを掛けて踊った妹が重なり、目がかすんでくるのです。
 戦後、私達は多くの遺族の皆様同様、戦争の記事、ラジオ、テレビの一切を拒否しました。遺族にとり、これほど忌しいものはありません。両親の嘆き悲しみ、私自身の辛さ寂しさ、と二重の苦しみに固く心を閉ざしてきましたが、洋上慰霊の旅の記事を読むにつれ、だんだん心が開けてきました。子を失った親の悲しみ、夫を失った妻の嘆きを知り、妹を亡くした姉の心を、参加できなかったお詫びを込めて記しました。〉

 

 

*1:千歳は、戦時には空母へ改造可能な水上機母艦として計画され、1938年7月に竣工しています。1942年6月末、ミッドウェー作戦における空母喪失を受け、空母への改造が決定されました。空母改造後、マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦に参加。レイテ沖海戦では、米機動部隊を引きつける囮艦隊として、艦載機をほとんど搭載せずに「瑞鶴」、「瑞鳳」、同型の「千代田」と出撃、1944年10月25日に全艦が戦没しています。