【日中戦争】内河航行権とパナイ号事件【揚子江】

本日は2本立て。前回記事では、徴用船について触れました。

oplern.hatenablog.com

ついでというわけでもないんですが、最近、船舶にまつわる記事が続いてますので、その流れで内河航行権とパナイ号(パネー号とも)事件について取り上げたいと思います。

内河航行権については、以下の記事にて少しだけ触れたことがあります。

oplern.hatenablog.com

「内河航行権」は外国船舶が中国内地河川を航行する権利のことで、不平等条約下にあった近代中国では、これにより外国船舶が治外法権的に揚子江などの河川を航行していました。

もうひとつのお題である「パナイ号事件」は、1937年12月に起こった日本海軍航空機による米海軍砲艦「パナイ号」撃沈事件です。
揚子江上に停泊していた「パナイ号」を日本海軍航空機が誤爆、撃沈した事件なのですが、皮肉なことに南京事件とタイミングが重なったことで、アメリカにおける南京事件報道の「煙幕」となった側面があります。
なお、南京事件については、下記のサイトが有名ですね。南京事件に興味がある方は、変なサイトに突撃したりせず、とりあえず下記サイトをじっくりご覧になることをお勧めします。

yu77799.g1.xrea.com

話がそれましたが、以降、内河航行権とパナイ号事件について。

内河航行権を(ちょっとだけ)知ろう

主権国家においては、外洋との連絡航路として、外国船に沿岸航行の一部を許可することはあっても、通常、沿岸や国内河川を広範囲に自由航行させるなんてことはありません。
しかし、近代中国では、水路が発達していることや河口に位置する港湾が多いことを背景に、外国との条約締結の際、外国船舶の中国内地河川の航行を認める「内河航行権」が認められることが多くありました。

内河航行権は揚子江、白河、珠江の西江黒竜江松花江、ウスリー江など各河川に設定され、さらに外国軍艦の内河航行権も認められることになります。

パナイ号事件の起きた揚子江に例を取ると、1858年、英清天津条約を端緒に、外国商船が揚子江の一部区間を自由航行する権利を得ていますが、その後、開港場の増加とともに揚子江の遡行可能範囲は次第に拡張されていきました。
日本も、1895年の下関条約にて重慶を開港させ、重慶に至るまでの揚子江航行権を獲得しています。
ちなみに、外国船にはそれぞれ通航証が発給されました。

前述の通り、国内河川を自由航行させる権利を外国船に付与するのは他に例がなく、内河航行権には、国内に諸外国の権益を抱えていた当時の中国の苦境が表れています。
経済的損失も大きく、内河航行権は、関税自主権治外法権と並んで、南京国民政府の取り組む問題の一つでした。

なお、日中戦争において、日本は支配下に収めた地域での外国船の揚子江航行を制限したりして各国から不興を買ってたりします。
当時の中国は、各国権益が錯綜する非常にめんどくさい微妙な情勢にあったのですが、わけても揚子江流域は、各国が進出を試みている地域であり、日本による揚子江封鎖は、特にイギリス、アメリカからの強い反発を招きました。各国に対する航行制限とは裏腹に、日本船舶には揚子江を航行させており、それも含めて、たびたび英米から抗議を受けています。

パナイ号事件を(ちょっとだけ)知ろう

さて、お次はパナイ号事件について。

日中戦争中の1937年12月初旬、日本海軍の第二連合航空隊(第十二航空隊、第十三航空隊)は、南京攻略へと向かう陸軍部隊に協力して、対地攻撃や航空制圧などに従事していました。
12月12日、第三艦隊司令部から陸軍部隊に派遣されていた連絡将校より、中国兵多数が商船数隻に分乗して、南京より揚子江上流に向けて逃走中である、との連絡が入ります。
これを受けて、第十二航空隊司令は、これら船舶の攻撃を命令。艦戦、艦爆、艦攻合計24機を発進させました。
飛行機隊は、南京上流約40kmの地点で停泊中の船舶を発見、艦攻による水平爆撃を開始します。水平爆撃での命中弾を受け船舶が沈没しますが、実は、これは中国兵が乗船する商船などではなく、中国在住のアメリカ人保護のために哨戒任務についていた米砲艦「パナイ号」でした。
撃沈による乗員乗客の被害は死者3名、重軽傷者48名です。
当時、「パナイ号」には、南京からの脱出のため前日11日の夕方に外国人ジャーナリスト数名が乗船するなど、民間人も乗客となっていました。これら民間人は5名が負傷し、うち2名は重傷となっています。

ちなみに、南京付近の米海軍艦艇の存在については、第二連合航空隊より上の第三艦隊司令部では把握していたようですが、航空部隊には情報が伝わっていなかったようです。

第三艦隊司令部は、「パナイ号」撃沈を知り、翌日、飛行機隊の4名の指揮官(大尉)を上海の旗艦「出雲」に出頭させ事情聴取を行いました。
誤爆であることが判明し、すぐさま米アジア艦隊司令部に陳謝しています。

パナイ号事件は、米内光政海相以下、海軍首脳に重大事態として受け止められ、第二連合航空隊司令官は更迭されることとなりました。
また、4名の飛行機隊指揮官も、海相から直接戒告を受けています。余談ですが、この4名の飛行機隊指揮官の1人は、後に真珠湾攻撃で最初に雷撃を加える部隊の指揮官となる村田重治大尉でした。

アメリカ側に対しては、賠償金として約320万ドルを支払うこととなり、外交的には約2週間で決着となるなど、日本側は迅速な動きを見せています。

最後に

パナイ号事件では、アメリカ国内の報道で日本側への非難が盛んに行なわれました。当初は、故意の爆撃と捉える見方も多かったようです。
日本側の迅速な動きもあってか、あまり長期化せずに鎮静化したものの、アメリカの新聞紙面は、しばらくパナイ号の記事で埋まることとなります。

冒頭で述べた通り、アメリカにおけるパナイ号事件の一連の記事は、南京事件報道に対する「煙幕」として機能しました。

ニューヨークタイムズの記者、ティルマン・ダーディンは、南京事件の第一報を米砲艦「オアフ号」から打電、12月18日の紙面に掲載されています。
しかし、12月16日には、APのマクダニエル記者が南京を離れ、以降、外国人ジャーナリスト不在の状況が数カ月続いたことから、南京事件の報道はしばらく途絶えることとなりました。
(とはいえ、1938年1月9日付のニューヨーク・タイムズには、詳細な続報が掲載されています。)

これに対して、パナイ号事件の報道は連日続きました。「リメンバー・パナイ」なんて言葉が展開されたりも。ちなみに、南京事件の第一報が掲載されたニューヨークタイムズ12月18日紙面にも、パナイ号事件生存者であるカメラマン、ノーマン・スーンの体験手記が載ってたりします。

……と、まあ、歴史を辿ってみると、いろんな事象があったりするわけですが、とりあえず、日本もアメリカも、人の国で好き勝手していたということについては、今一度認識しておくべきかと思います。