Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【BCG・療養所】日本軍vs結核【結核対応その後】

世の中には、紛らわしいタイトルの映画が多くあります。例えば「ゴーストバスターズ」と「ゴーストハンターズ」。
ゴーストバスターズ」は原題そのままですが、「ゴーストハンターズ」の原題は「Big Trouble in Little China」と似ても似つかない名前なので、邦題で紛らわしくされた形ですね。
ゴーストハンターズの公開の方が遅いので、まあ、メジャーな映画に似せたとかそういう作為があったんじゃないかと思うのですが、ともあれ私はゴーストハンターズの方が好きだったりします。

紛らわしい名前の映画として少し面白いのが、香港映画「少林寺vs忍者」と「忍者vs少林寺*1」。
非常に紛らわしい邦題ですが、こちらの両作品、原題は双方とも「中華丈夫*2」です。
内容は全く異なり、「少林寺vs忍者」は中国人の夫と日本人の妻が武術をめぐって夫婦喧嘩となる話、「忍者vs少林寺」は、なんか徳川埋蔵金をめぐって(いるらしい。劇中ほぼ情報が開示されないのでよくわからない)若かりしマックス・チャンが忍者と戦う話です。
もしも、原題が同じことを踏まえてあえて紛らわしい邦題をつけたのであれば、なかなか凝ってますね。真相はどうだかわかりませんが。

さて、延々記事タイトルと違う話を続けてしまいましたが、ここから本題。
前回、日本陸軍が行った結核への対応について触れました。

oplern.hatenablog.com

今回は前回の補足的記事。太平洋戦争後半時期の結核対応および、結核療養所の事例とBCGについて少々。

なお記事タイトルが紛らわしいのは、香港映画「少林寺vs忍者」と「忍者vs少林寺」へのオマージュですごめんなさい。

結核対応その後

前回記事にて、

意外なことに結構ちゃんとやってますね。

【日本陸軍】結核vs日本軍【感染症】 - Man On a Mission

 などと書いたのですが、これも長くは続きませんでした。
前回記事でも

太平洋戦争の逼迫に伴い、これらの措置は棚上げされ、有名無実化が進んでいくことになりました。

【日本陸軍】結核vs日本軍【感染症】 - Man On a Mission

 と書いたのですが、もう少し具体的な話を。

陸軍省は、1939年に一般的臨床的検査、レントゲン、喀痰検査などを用いて結核感染源の早期発見することを挙げました。
しかし、早くも1942年には、陸軍省医務局医事課の通知「徴兵身体検査の指導方針並に壮丁体力の概要に就て」の「結核者の入営防止」で「異常のある者でも之を努めて合格と致し」なんて言い出し始めます。
さらに、1943年9月21日には、兵役法施行規則を改正公布し第二国民兵も召集されることになりました。第二国民兵は、徴兵検査で丙種合格者とされたものですが、結核病者が多く存在*3しており、結核対策は大きく後退することとなります。

ついでの余談。結核が発覚して現役免除となった事例を。
雑誌『暮しの手帖』の初代編集長だった花森安治氏は、1938年に現役兵として入営、満洲に派遣されたものの、1939年に月例身体検査で胸部の異常が発見されて陸軍病院に入院となりました。
3か所の陸軍病院を転院して、「右肺下葉浸潤」と診断されますが、現地の病院では完治困難として内地送還されます。大阪陸軍病院深山分院に入り、翌1940年1月に現役免除となって退院しました。
ところが、1943年4月1日には臨時召集を受けます。しかし、肺結核だったことが影響したのか、22日には召集解除となりました。

傷痍軍人兵庫療養所の例

参考まで、療養所の事例を一つ。
傷痍軍人兵庫療養所の結核傷痍軍人について、戦後の1955年に山出良次氏、上砂紀氏が統計的な観察を行った結果を発表されてますので、そちらから入所加療者数や年齢別の発病割合などを少し引かせていただきます。

傷痍軍人兵庫療養所は1939年7月に開設しました。開設から1945年8月の終戦当日までに入所加療した結核傷痍軍人は以下の通りです。

1939年:211名
1940年:506名
1941年:379名
1942年:292名
1943年:294名
1944年:326名
1945年:152名

以上、計2,160名となります。

発病年齢は、数え年16歳から44歳におよび、中でも22~24歳が最も多く56%以上でした。特に22歳は総数の約4分の1を占めています。
発病から入所までの期間は、80.9%は1年半以内に収容されていますが、戦争の激化につれて半年以内に入所した者が減少しています。
ちなみに、3年以内に入所した者の死亡は45%前後であるのに対し、3年以上を経過した者は50.9%とやや多くなっているそうです。

陸海軍の出身別では、陸軍が1,983名、海軍177名です。
発病地は、内地が44.4%、次いで満州が15.8%、中支14.9%、北支13.8%の順となり、南支、南方、朝鮮、艦内はそれぞれ3~2%台でした。

なお入所加療した結核傷痍軍人のその後について、7年後または13年後の遠隔予後調査を上記2,160名のうちの生存退所者1,515名に対して行っています。
1952年10月に主として通信により調査されており、返信を得たのは766名だったとのことです。返信を得られなかった者の中には、終戦前後の混乱にて住所不明となった者も相当あると推察されています。
予後の状況としては、就業14.5%、療養中5.9%、死亡45%、不明34.7%でした。

BCGと石井機関

結核予防としてよく知られているBCGですが、731部隊で知られる石井機関でも研究されてたりします。
BCGの研究を担当していたのはH軍医少佐でした。
H軍医少佐は、陸軍軍医学校防疫研究室の紀要に9本の論考を発表、うち6本を中心に東北帝国大学に博士号を請求し、1947年10月18日に博士号を得ています。
H軍医少佐の博士号請求論文には本文を一部黒塗りにしているなど、不自然な点があるのですが、常石氏によれば、軍事研究目的であったことを隠して民生目的を装う意図によるものだろう、とのことです。

ちなみに、1981年、常石敬一氏が石井機関について聞き取るため、陸軍軍医学校防疫研究室の「番頭」を自認していた内藤良一元軍医中佐を尋ねた際、石井機関の「成果」メモを提示されたそうです。
メモには「乾燥人血漿(輸血代用)、濾水機、ペニシリン(碧素)、BCG(乾燥)、ペストワクチン、発疹チフスワクチン、コレラワクチン、破傷風血清」が列記されていたとのこと。一見凄そうですが、世界に先駆けてなんてものではなく、既成の成果の焼き直しでした。

内藤氏は「君たちはいろいろ悪く書くが、僕たちのところではこうしたこともやったのだよ。これも知っておいてもらいたい」と言いつつ上記メモを渡したそうです。
このメモについて、常石氏は「約十年間に数千人の人を人体実験の結果殺害して、この程度のことしかできなかったのか」なんて印象を抱かれたそうですが、私もまったく同感でございますありがとうございました。(731部隊

なお、内藤氏は1950年にミドリ十字*4の前身である「日本ブラッドバンク」を設立しています。

最後に

BCGについて少し余談を。
1951年には、日本本土と沖縄とで別々の結核対策が始まります。
本土ではBCGの集団強制接種が、沖縄では患者の早期発見と治療が柱となりました。
1967年、沖縄の本土復帰に先駆けて本土と同様のBCG接種が始められることとなります。
しかし、これについては沖縄で結核対策の関係者から疑問の声が上がりました。というのも、1934年時点で結核による死亡率が、全国190.8、沖縄234.3だったのが、1968年時点になると全国16.8、沖縄14.3と逆転していたからです。
しかしながら、この結果は無視され沖縄でも本土同様にBCG接種が行われることとなりました。

 

 

*1:正確にはULTIMATE BATTLE/忍者vs少林寺

*2:「忍者vs少林寺」の方は「致命密函」「魔忍狂刀」という別名あり

*3:徴兵検査では、結核要注意者が丙種とされるケースがよく見られました。

*4:1998年4月に吉富製薬と合併しました。