Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【終戦記念日】8月15日の風景【玉音放送】

本日は、8月15日。終戦記念日です。
当ブログでは、2017年8月15日に、以下のような記事を書きました。

oplern.hatenablog.com

書いといてなんですが、実のところ、8月15日は「終戦記念日」ではあるものの、「終戦の日」かと言われると疑問符がつきます。

ポツダム宣言受諾は8月14日であり、大本営の停戦命令は8月16日*1。降伏文書への調印は9月2日です。8月15日には、玉音放送により国民へ日本の降伏が伝えられましたが、これは外交事案である終戦交渉に意味を持つものではありません。そんなわけで、8月15日は宙に浮いてしまうのです。

8月15日は、日本では終戦記念日として認識されていますが、これは玉音放送という「国民体験」や、戦時中8月15日に行われていた「戦没英霊盂蘭盆会(うらぼんえ)法要」が素材となって創りだされたもののようです。
例えば、戦没者追悼式が毎年8月15日に行なわれるようになったのは1963年からで、それ以前も、1952年5月3日と1959年3月28日に行なわれてはいますが、いずれも恒例行事ではありません*2
1963年に始まる追悼式は、第二次池田勇人内閣で閣議決定された「全国戦没者追悼式実施要項」によるものです。これは、日本遺族会日本郷友連盟など保守派の要求に応じたもので、以降、毎年8月15日に政府主催の全国戦没者追悼式が執り行われるようになりました。
さらに、1982年にはその日が「戦没者を追悼し平和を祈念する日」として閣議決定されています。
ちなみに、朝日新聞やら読売新聞やらは、比較的早い時期から「8月15日終戦」の意識付けに取り組んだようですが、1953年8月15日の朝日新聞天声人語」では「原爆の日は覚えていても、終戦の日は"ほうそうだったか"と忘れがちである」とあり、このことからも、8月15日が「終戦の日」として定着していなかったことがうかがえます。
8月15日=終戦の日というのは、戦後に広まってしまった「社会常識」なのですね。

なお、日本以外で8月15日を「終戦日」とする国家は、韓国(光復節)、北朝鮮解放記念日)のみです。ヨーロッパの歴史教科書では、戦艦「ミズーリ」で降伏文書調印式が行なわれた1945年9月2日が対日戦勝利の日と記述されており、アメリカのVJデイも9月2日です。
アジアでは、終戦や戦勝の記念日に現地日本軍が降伏した日や武装解除した日を定める国もあり、例えばフィリピンは9月3日、シンガポールやマレーシアは9月12日としています。

そんなわけで、8月15日が「終戦」というのは、かなり内向きというか、実情と食い違う捉え方なのです。
ついでにいうと、ソ連軍による千島列島北部占領作戦は8月15日に準備および実施命令が出ており、また米軍占領下となっていた沖縄では8月15日以降もゲリラ戦が続きました。

8月15日=終戦の定着過程については、佐藤卓巳氏氏が「八月十五日の神話」にて明らかにしていますので、興味がある方はどうぞ。

八月十五日の神話: 終戦記念日のメディア学

さて、一昨年の終戦記念日記事は、日中戦争から太平洋戦争における日本国民の犠牲者数が主題だったのですが、ついでに1945年4月の小磯内閣退陣後、鈴木貫太郎内閣に交代してからの降伏に至るまでの経緯についても述べています。
今回記事では、視点を細部に移して、8月15日の玉音放送の経緯を追ってみましょう。

玉音放送前夜

一昨年の記事と被るところもありますが、8月10日の御前会議から8月14日までの経緯を。

1945年8月10日、午前0時3分から始まった御前会議で、国体護持を条件にポツダム宣言受諾が決定され、同日午前6時45分に、公式通告としてスイス公使およびスウェーデン公使に発信されました。手交先は両中立国政府でしたが、電文の宛先はアメリカ、中国、イギリス、ソ連です。

また、上記とは別に、10日の午後8時過ぎに、同盟通信社のモールス信号と日本放送協会の海外放送がポツダム宣言受諾の全文を海外向けに発信しました。

同日夜、アメリカの日本向け短波放送は「ポツダム宣言受諾の用意成れり」との日本政府の申し入れがスイス政府を通してあった、と放送しています。この短波放送は、日本の陸海軍部隊でも傍受されていました。

8月12日午前0時45分、米サンフランシスコ放送は、日本の申し入れに対する連合国回答文を放送します。
降伏後の天皇の処遇については正面から触れず、以下のように伝えられました。

  • 降伏後、天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす。
  • 最終的の日本国の政府の形態は、ポツダム宣言にしたがい、日本国民の自由に表明された意思によって決定せらるべきものとす。

天皇の地位に言及しない回答文の解釈をめぐって日本の最高戦争指導会議は紛糾し、陸海軍の両総長による受諾反対上奏なども起きますが、8月14日に昭和天皇の発意による御前会議が開催され、連合国回答文の受諾が決定されました。
同日午後8時、天皇が「大東亜戦争終結詔書」(終戦詔書)に署名、各国務大臣が副署し、午後11時に詔書が煥発されます。

回答電の第一報がホワイトハウスの大統領執務室に届いたのは、米東部時間8月14日午後4時5分のことでした。同日午後7時にトルーマンは日本の降伏を発表します。

話を日本に戻すと、8月14日午後9時の報道で、明日正午に重大なラジオ放送があるので国民は謹聴すべし、との通知がなされました。
(8月15日午前7時21分にも、館野守男アナウンサーが2度めの重大放送予告を行ないました。ちなみに、館野アナウンサーは1941年12月8日午前7時に日米開戦を知らせる臨時ニュースを読み上げたアナウンサーでもあります。なお、当時は「アナウンサー」という言葉は使わず「放送員」と言ってたようですが、漢字が連続して読みづらいので、アナウンサーに統一させていただきます。)

8月15日に放送される天皇自身による終戦詔書朗読、いわゆる「玉音」は、8月14日に円盤式テレフンケン型一四録音機によって10インチ盤(約3分収録)2枚に録音されたものです。
天皇による詔書朗読は、14日午後11時25分から宮内省内廷庁舎2階の御政務室にて行なわれており、朗読時間は4分37秒でした。

また、首相官邸では、新聞記者団に8月14日の日付が明記された終戦詔書の写しが配布されています。この際、正午の「玉音放送」が終わるまで、朝刊を配送しないよう指示が出されました。

4分37秒の玉音、37分30秒の玉音放送

ここから、8月15日の「玉音放送」について。

15日正午、和田信賢アナウンサーが、これより重大な放送があることを告げ、聴取者に起立を求めました。続いて下村宏情報局総裁が、天皇自身が「大詔(おおみことのり)を宣らせ給う」ことを告げます。「君が代」が流れ、その後に「玉音」が放送されました。

「玉音」レコードが再生された後に、再び「君が代」が流れ、和田アナウンサーにより「謹みて天皇陛下玉音放送を終わります」という言葉でいったん締めくくられています。

「玉音」については、ラジオ放送の雑音が酷く、よく聞き取れなかったという話が多くみられます。昭和天皇がこういった録音に不慣れであることも、聞き取りづらさに拍車をかけたんじゃないかという人も。
終戦詔書は、難解な漢語が散りばめられた上に、その内容も降伏や敗北という直接的な表現が避けられたものとなっており、これらが相乗して、すぐには理解できない国民も少なくありませんでした。
中には、戦争継続に向けて戦意を鼓舞するものと誤解する聴取者もいたということが、作家の小松左京や女優の高峰秀子などの手記に述べられています。
(「私の履歴書」でも石井久が同様のことを述べていますね。)
とはいえ、文言は理解できなくても、なんとなく大意を察した聴取者も相当数いたようです。
また、「玉音」の内容を理解できなくても、それに続いて和田信賢アナウンサーの詔書解説があり、日本が降伏することが伝えられました。和田アナウンサーはさらに終戦詔書の全文再読、内閣の国民に対する告諭、ポツダム宣言受諾に関する日本政府から連合国への通告文および連合国から日本政府への通告文、ポツダム宣言カイロ宣言の要旨、8月9日の御前会議から14日受諾通告までの経緯解説、平和再建の詔書煥発までを読み上げています。
天皇終戦詔書朗読を含めた一連の「玉音放送」は37分30秒に及びました。

以下、余計な余談。
玉音放送の当日、日本にいたフランス人ジャーナリスト、ロベール・ギランは手記(「日本人と戦争」)の中で、
「皆驚く。ほとんど何もわからなかったからだ!天皇は、天子のみが使う特別な荘重なお言葉で語られたのだ。」
「奇妙な話だが、その直後に、天皇が語られたことをわかりやすい言葉に翻訳する、公式のアナウンサーの声が入る必要があったのだ。」
と述べています。
まあ、なんというか、権威主義的価値観からすると、わけわかんねえから、むしろ有り難く感じるんじゃないスカね、たぶん。
なお、玉音として朗読された終戦詔書については、以下で見ることができます。

www.digital.archives.go.jp

ちなみに、終戦詔書の内容もいろいろツッコミたくなる所が多いのですが、本日は時間が足りないので、その辺はまたいつかの機会に。

玉音放送直後

さて、玉音放送直後の国民の反応についても少し。
国民全体を一緒くたにすることはできませんが、多くの人は茫然自失といった状態だったようです。

治安当局側の報告では、「民心の約七割は、陛下の重大放送は戦争遂行の最後の決意を御放送あるものとの期待を持せる処、其結果は和平、戦争終結となりしを以って呆然落胆悲憤慷慨する者等各所に散見せらる」とか、「一般県民ハ抗戦ト思ツテヰタ者多ク昨日ノ発表ニテー時呆然自失ノ態」とか、「県民ハ真二荘然自失悲憤慷慨其ノ極二達シ徹底抗戦ヲ叫ブモノ、詔書必謹ヲ唱フル者等全ク名状スベカラザル状況ニアリ」といったような、状況が伝えられています。
一方で、落胆はしつつも安堵した、という国民も多くいました。治安当局の報告には、夫や子供が兵役に就いている、または、いつ召集されるか不安を抱えている女性の安堵感が強かったと記録されています。

逆に今後の生活については、強い不安を抱く者が少なくありませんでした。これにより、玉音放送直後から、全国的に預貯金の払戻が急増しています。

最後に

一点補足を。

降伏にあたり、日本が最後まで譲れないとした「国体護持」ですが、これを単純に天皇制存続のことだと捉えると実態が見えなくなります。
「国体」は、明治以来の天皇を中心とした統治機構のことを指します。つまるところ、「国体護持」というのは、天皇を含めた指導者層の権力機構が温存される、という意味なわけですね。
「国体護持」について、アメリカは、自国内の対日世論もあって明確に認めることはありませんでしたが、事実上はある程度これに応じています。

同じ敗戦国でも、戦後ドイツでは反ナチ/非ナチの立場の行政に通じた人々が登用されて大きな役割を果たしたのに対し、日本では保守勢力の基盤が重大な打撃を受けることなく、戦前・戦中からの連続性が保たれました。
GHQ発出の覚書に基づく公職追放が行われたものの,それを潜り抜けたり復活することは比較的容易であり、総力戦体制の中心となった人物や、天皇周辺の人物が戦後に主要な政治指導者となっています。

日本で、戦時中の「やらかし」を隠蔽しようとしたり、無理筋で正当化しようとしたり、責任逃れしようとする動きが目立つのも、こういう所が関係しているのかもしれませんね。
個人的には、日本の民主主義がいまいち定着も成熟もしない原因の一つと思っているのですが、日本国民の多くは、民主主義をよく理解しないまま日本が成熟した民主主義国家だと認識しているようです。
そういえば日本には、ポツダム宣言はよく知らないけど戦後レジームから脱却したいとか、わけわかんねえことを言ってる首相がいますね。未だ過去形にできないところに、日本の現状が表れてるような…。

 

 

*1:8月15日に積極的進攻作戦の禁止、16日に自衛戦闘を除く即時停戦を発令しました。

*2:1952年5月3日はサンフランシスコ講和条約発効を記念して、1959年3月28日は千鳥ヶ淵戦没者墓苑の完成記念として行なわれました