Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【世界のマイナー戦争犯罪】ババル島事件【日本軍】

本日は二本立て。今回記事は「世界のマイナー戦争犯罪*1」シリーズ15回目、ババル島事件について。

「世界のマイナー戦争犯罪」シリーズは、日本軍による南京事件ナチスドイツのユダヤ人虐殺といった有名どころの戦争犯罪は脇に置いといて、あまり知られていない戦争犯罪を取り上げてみようという企画です。
「世界の」とか言いつつ、日本の登場頻度が高めだったりするのですが、これは私の趣味範囲によりますので致し方ないものだと思って下さいごめんなさい*2

今回取りあげるババル島事件は、1944年10月から11月にかけてインドネシア東部のババル島で起こった、日本軍による住民虐殺事件です。

旧軍関係者の所持していた資料を入手した武富登巳男氏により、1986年、実に事件から42年後に明らかにされました。
日本側作成文書に大幅な改ざんのあとが見られ、不明な点が多いのですが、婦女子含めて400名〜700名ほどを殺害したとみられています。

ババル島事件前夜

ババル島は、6つの島々からなるババル諸島の主島であり、インドネシア東部のモルッカ諸島南端、ニューギニア島ティモール島の中間に位置します。北はバンダ海、南はチモール海に面しており、さらに東にはアラフラ海があります。

当該地域は、1942年8月に開庁されたマカッサル民政府のセレベス民政部のもとに置かれていたものの、戦局の推移により作戦を主とした軍政に切り替えられました。
とりわけ、ガダルカナル失陥以来は、連合軍の激しい空襲を受けるようになります。
日本陸軍南方軍は、マレーにあった第五師団をアラフラ海方面に転用することとし、また、1943年1月には豪北のこの地域を作戦地域とする第十九軍新設が決定されました。

ババル島事件を起こした部隊は、第十九軍第五師団がババル島に配置していた部隊、それから海軍アンボン警備部隊の第二十四特別根拠地隊の一部(ババル島駐屯部隊)と思われます。陸海軍あわせて、推定60〜70名程度で同島守備を担当していたようです。また、憲兵隊も若干名が駐屯していました。

陸軍の駐屯部隊は第五師団歩兵第四十二連隊より派遣されていましたが、連隊本部ははるか120キロ東方のタニンバル諸島です。
事件発生当時、日本の制空権・制海権はほぼ失われており、絶望的な状況で前線に孤立している状態でした。
(ちなみに、空襲被害を受けていたのは当然ながら日本軍に限りません。同島住民も相当な被害を受けています。)

同島駐屯の日本陸海軍軍人・軍属は、現地住民を「獰猛ナル」習俗の持ち主と認識し、高圧的態度で接していたようです。
また、日本軍占領地では珍しくもありませんが、食糧、煙草などを不当な代価で強制的に供出させており、島民は不満を募らせていました。

ババル島事件

さて、そのような状況の中で事件の引き金となったのは、海軍の日本人嘱託と、エンプラワス村の村長とのトラブルです。
エンプラワス村から煙草を供出させようとしたところ、村長がその値段では売れない、と答えたことから、海軍嘱託が村長を殴打したようです。
これに村長が激昂し、10月27日、村民が同嘱託と、同行していた現地人密偵を殺害しました。村民は、さらに海軍見張所、憲兵屯所を襲撃し、日本軍側に死傷者が出たようです。

これへの報復討伐として、同島駐屯の陸海軍守備隊は2回にわたる討伐を行いました。
日本側資料によると、1回目(11月3日-9日)は30名から40名程度の小隊規模の討伐隊を編成し、住民100名余を「銃殺及ビ捕ヘタノミ」としています。

2回目(11月11日-20日)の討伐では、タニンバル諸島の歩兵第四十二連隊より約60名の増派を受けて、第十二中隊の主力が討伐を実施しました。
密林山中に逃亡避難していた住民400名〜500名が帰順してきたものの、婦女子を含む400名余を銃殺しています。
(日本側資料によれば、村落間の対立を背景とした他村落村長の「徹底的処分ヲ要ストノ意向」を容れたということです。)
上記により、日本側資料から推計すると、エンプラワス村住民716名中、400〜500名余を銃殺した、ということになります。

上記は、日本側資料に基づいたものですが、これに対しインドネシア側証言およびエンプラワス村の資料では、焼き討ちされた家の数が400、殺害された住民は704名となっています。
ちなみに、日本軍による銃殺を免れ、あるいは連合軍による重爆撃を逃れて、終戦まで密林に隠れていた住民も、飢餓やマラリアなどにより多数が死亡したようです。

さて、日本側資料は冒頭で述べた通り、改ざんのあとが見られるわけですが、インドネシア側は生存者が少ないうえに証言者が当時幼少だったこともあって、実態の把握が困難な状況となっています。
1992年、村井吉敬氏がババル島に赴き調査を行なったものの、証言者へのインタビューについては、上記問題だけでなく、群長、軍警関係者が立ち会うという特殊な状況下ということもあり、事件の全容解明には至っていません。

なお、上記調査における村井氏の報告については、下記で見ることができます。

digital-archives.sophia.ac.jp

上記報告の証言によれば、エンプラワス以外にも、さまざまな虐待・拷問・虐殺があったということです。
また、虐殺後に慰安所が作られ、エンプラワス村から女性が連行されて慰安婦にされた、という証言も*3

葬られたババル島事件

さて、事件から9ヶ月後、日本はポツダム宣言を受諾し敗戦へと向かうわけですが、第五師団幹部は、同事件の連合軍による戦犯追求を恐れて、関係資料を何度か書き直しています。
最終報告が出来上がるまで、少なくとも3回にわたって「審査」が行なわれました。

インドネシアにおける日本軍の住民虐待や虐殺事件は、数多く発生しており、また、これらは戦後、戦犯裁判の対象とされたものも少なくありません。
しかし、ババル島事件は、文書改ざんの甲斐あってのことかは不明ながら、戦犯事件として訴追されることはありませんでした。
この点については、第五師団長の山田清一中将が、病院船橘丸の兵員輸送事件の責任を負う形で自決したことも影響したのではないかといわれています。

主な参考資料

本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。

世界戦争犯罪事典

 

 

*1:実のところ、一口に「戦争犯罪」といってもその定義はあまり明確ではありません。狭義の戦争犯罪としては、ハーグ陸戦規定などの戦時国際法規に違反する民間人や捕虜への虐待・殺害・略奪、軍事的に不必要な都市破壊などが挙げられますが、一般的には、これに含まれないユーゴスラヴィアルワンダ内戦での虐殺、ナチスドイツのアウシュヴィッツなんかも戦争犯罪とされています。当ブログではあまりこだわらず、一般的イメージとしての「戦争犯罪」を扱いますのでご承知おきください。

*2:実のところ、日本の戦争犯罪について、隠蔽しようとしたり、矮小化しようとしたり、無理筋で正当化しようとしたり、責任逃れしようとする一部の連中にイラついているから、というのも否定しがたい理由だったりするのですが、言わぬが花だと思うので言わなかったことにします。

*3:余計な余談ですが、最近、某所にて、当ブログの陸軍給料の記事が、慰安婦問題について矮小化したり詭弁を弄する流れで用いられていたようです。右だか保守だか普通の日本人だか知らないけども、相変わらず自説に都合の良い所だけ使ってるようですね。率直に言って非常に不愉快ですが、まあ、連中に全うな神経を期待するだけ無駄なので、こんなところでひっそりと愚痴るくらいしかありません。とりあえず、右だか保守だか愛国者だかな方々には、この辺を100万回くらい繰り返し読まれることをお勧めいたします 。