Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【終戦記念日】マニラ戦にみる日本の加害行為【太平洋戦争】

本日は8月15日。終戦記念日です。
1945年8月15日正午、昭和天皇による終戦詔書大東亜戦争終結詔書)がNHKラジオにより放送(玉音放送)され、日本国民に「大東亜戦争」における日本の降伏が伝えられました。

当ブログでは、過去、終戦記念日に関連する記事を上げています。

oplern.hatenablog.com

oplern.hatenablog.com

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今回も同様に終戦記念日にちなんだ記事です……少なくとも私の中では。
今まで上げた記事は、曲がりなりにも8月15日という日付が軸になっていますが、今回はそうではありません。
1945年2月に始まるフィリピンのマニラ戦における、日本の加害行為を取り上げる内容です。

上記に上げた記事のうち、2017年のもので「海外に対する戦争責任だけでなく、日本国民に対する日本国政府の戦争責任についても、もっと議論すべきじゃないか」などと書いたのですが、これは私の不明もいいところでした。
その後の日本は、日本国民に対する戦争責任が議論されるどころか、海外に対する戦争責任も俎上に載せられなくなるという傾向にあります。
そんなわけで今回は反省して、日本の加害性を前面に出した記事を書くことにしました。ま、私の記事1つで何がどうなるというわけでもないでしょうが。

太平洋戦争における日本の加害行為は山ほどあるのですが*1、日本の敗戦時期からあまり離れていない時期で、またあまり近代史への関心がない方には知られていないもの、という観点からマニラ戦における住民への加害行為を選定しています。

なお、あまり時間がないので、マニラ戦の背景や詳細な戦闘経過には触れてません。
その辺に興味がある方は、他のWebサイトなり資料なりをお探しください。

ついでというか、本題に入る前に余計なことを言うと「終戦記念日」が玉音放送の行われた8月15日とされているのは、非常に内向きというか、個人的にはいかにも日本らしい独りよがりさを感じます。
詳しくは、2019年の記事をお読みいただければと思いますが、8月15日を「終戦日」とするのは日本、韓国、北朝鮮くらいで、ヨーロッパやアメリカでは降伏文書調印式が行なわれた9月2日が対日戦争勝利の日とされています。
アジアでは、終戦や戦勝の記念日に現地日本軍が降伏した日や武装解除した日を定める国があり、シンガポールやマレーシアは9月12日、今回記事で取り上げるフィリピンでは9月3日です。
世界における「終戦」という視点を持たないと、なかなか適切に「反省」することは難しいんじゃないでしょうかね。

閑話休題
つい余計なことを吐き捨ててしまいましたが次章より、マニラ戦における日本軍の加害行為について。

マニラ戦における日本軍の加害行為

1945年2月、フィリピンの首都マニラに突入した米軍と、これを迎え撃った日本軍との戦闘により、多数のフィリピン人が殺害されました。
2月3日から3月3日まで1か月間続いたマニラ戦では、マニラ市民約10万人が犠牲となっています。
(なお太平洋戦争初期の日本軍のフィリピン侵攻では、アメリカ側がマニラを「オープンシティ(無防備都市)」と宣言、無血開城となったため、戦闘は散発的なものにとどまり都市の破壊や民間人の被害が防止されました。)

このマニラ戦においては、日本軍による大規模な住民虐殺が市内各地で行われました。
近年の戦史研究では、日本軍による残虐行為だけでなく、米軍の砲爆撃による犠牲も多かったことが指摘されており、民間被害の6割が日本軍による殺戮、4割が米軍の砲火による死亡と推定されています。
(ただし米軍砲火による死亡についても、日本軍がマニラを戦場にして徹底抗戦を行ったことが被害の一因であることは否定できません)

マニラ戦の概要

さて、マニラ戦の際、日本軍主力はすでにマニラから東方の山中に撤退しており、防衛の中心となったのはマニラ海軍防衛隊(海軍の第31特別根拠地隊主力)でした。総人員は約2万2600名程度と推定されています。

米軍の最初の部隊がマニラに入ったのは2月3日の夕方で、この際には日米交渉の結果、聖トマス大学に抑留されていたアメリカ人や連合国側の市民が米軍に引き渡されました。
抑留所としていた聖トマス大学を警備していた部隊は、米軍が見守る中を日本軍陣地方面に後退しています。
ここでは、両軍が良識的な判断をおこなったといえるでしょう。

その後、2月7日に市街地の北側を流れるパシグ河を米軍が渡河、パコ駅周辺など市街地東側の地区で激しい戦闘が行われました。
10日にはパコ駅を占領、11日にはプロビソール島、12日にはニコラス・フィールドを占領し、西側の海を除いて米軍がマニラ市街地を包囲する状況となっています。
これにより、マニラ海軍防衛隊は東方山中の日本軍主力との連絡線を絶たれることとなりました。
マニラ海軍防衛隊に対して、15日には司令部のマニラ撤退、17日には全部隊撤退の命令が出ましたが脱出に失敗、以後、マニラにとどまって戦闘を続けることになります。

2月12日から米軍は無差別砲撃を開始し、日本軍がいるとみられる建物を破壊していきました。
マニラ海軍防衛隊は「斬込」という名目で脱出も試みたようですがうまくいかず、建物の中に隠れて抵抗するくらいしかできなくなっています。

2月26日にはマニラ海軍防衛隊の岩淵司令官が自決、3月3日には主要ビルの占領がなされ、マニラ戦は終了しました。

日本軍による加害行為

ここから本題。マニラ戦における日本軍の加害行為を。

米軍はマニラ市街戦が始まる前から、戦後の戦争犯罪告発をにらんで、戦犯調査の準備を始めています。
そのため、マニラ戦後すぐ日本軍の残虐行為について情報収集、戦争犯罪捜査を行っており、被害事実について詳細な記録が残されることとなりました。

日本軍の加害行為は多数あるのですが、あまり時間がないので、3つほどピックアップして具体例を挙げていきます。

まずはラ・サール学校の虐殺。
これは2月12日にドイツ人カトリック修道士とアイルランド人の学院長、学校に避難していたスペイン人、フィリピン人などあわせて40人が殺害された事件です。
生存者であるコスグレイブ神父の証言によると、20人の兵士をつれた日本軍士官が入ってきて、銃剣で刺殺していったとのことです。
犠牲者には子供も含まれ、中には2、3歳以下の幼児もいました。

次にフォート・サンティアゴにおける虐殺。
米歩兵第129連隊は2月23日から24日にかけて、フォート・サンティアゴにて推計約400人の死体を発見しています。
銃殺や刺殺、餓死と思われる死体で、なかには焼かれていたものもありました。
ほとんどが成年男性のようでしたが、少なくとも1体は女性だったと報告されています。
なお、イントラムロスにいたフィリピン人の男たちが2月8日に日本軍により集められてフォート・サンティアゴに連行されたという神父による証言があり、また、日本軍兵士の日記にも、この事件と対応すると思われる記述が見られます。この日記には1000人以上を殺害したと記述されています。
フィリピン当局が実施した対日戦犯裁判の記録では、フォート・サンティアゴとその周辺での虐殺は約4,000人とされました。

最後にベイビューホテル事件。
これは、日本軍がマニラ中心にあるエルミタ地区の女性たち数百人を、ベイビューホテルに監禁し、数日にわたってレイプを繰り返した事件です。
この事件については少し詳しく取り上げようと思いますので、次節での説明とさせていただきます。

なお今回は時間がないので触れませんが、先に述べた通り上記以外の事例も多数あります。
イントラムロス城内では成人男性の大多数が日本軍により逮捕拘留・殺害された他、中立国であるスペイン国籍の聖職者・民間人も虐殺されました。
また、エルミタ・マラテ地区でも住民が日本軍の銃剣や機銃掃射で殺戮されています。
ちなみに、東京裁判では聖パウロ大学における殺害(子供を含む994人)や北部墓地における殺害(約2000人)などが報告されました。

なお、7日または8日に岩淵司令官が直率する中部隊の海軍第2大隊から出されたと思われる命令に、「比島人を殺すのは極力一ヶ所に纏め弾薬と労力を省く如く処分せよ 死体処理うるさきを以て焼却予定家屋爆破家屋に集め或は川に突き落とすべし」という内容が含まれており、フィリピンの民間人殺害が組織的に計画されていたことがわかっています。
数十人から数百人規模の大規模な虐殺も、上記命令が出た後の9日ごろから頻発するようになりました。
このような命令が出た背景には、日本軍による住民敵視があります。
日本軍の被害妄想に満ちた住民敵視は毎度のことですが、この時も住民が通敵行為を行っており、また、マニラ市内にゲリラがまぎれ米軍と呼応して日本軍に攻撃を仕掛けているなどと認識していたようです。
もちろん、日本軍がこのような認識を持っていようが、それで幼児を含む住民を見境なしに虐殺するなんてのは、とても正当化できる行為ではありません。

ベイビューホテル事件

では、ベイビューホテル事件について述べていきます。

2月9日の午後、エルミタ地区にて、米軍の砲撃により各所で火災が発生しました。
(日本軍が火をつけたという証言もあり)
火災により家から逃げ出した住民や、日本兵の命令で外に出た住民たちは、ファーガソン広場に集められました。
同日午後7時から8時頃、住民らは日本軍により男性だけのグループと女性・子供たちのグループに分けられます。
男性グループは広場周辺の家々に収容されたようですが、女性・子供のグループは広場の北側にあるベイビューホテルに連行され、各部屋に20~30人ずつ程度に分けて入れられました。
監禁された女性・子供の総数は数百人におよぶと見られますが、はっきりとはわかっていません。

この女性・子供のグループから、若い女性たちだけ20数名が選別され、ベイビューホテルの南隣にある「コーヒーポット」というレストランに連れていかれました。
「コーヒーポット」には日本軍将校と思われるもの数人が酒を飲んでいたそうです。
連行された女性たちはそこに1時間ほどいた後、ベイビューホテル3階あたりの1室に監禁されました。
監禁されてからしばらく後、部屋に数人の日本兵が入ってきます。日本兵は、目を付けた女性をホテル内の別の部屋に連行し、そこで1人または複数の将校や兵士たちによる強姦が行われました。
この選別された女性たちのほとんどは同じ被害にあっていますが、残された人々も無事だったわけではありません。
残された人々がいた部屋にも日本兵がやってきて、そこから若い女性が引きずり出されて同様の被害を受けています。

その後の数日間、日本兵たちは日中は米軍との戦闘のためホテルにはおらず、夜になると集まってきていたようです。
日中は、住民が逃げ出さないよう玄関などに若干の警備兵が残っていただけだったため、ホテル内での各フロアーでは、比較的自由に動き回ることができました。
また、10日になってから、わずかな水やビスケットなどの食料が配布されています。

10日午後、日本軍はフィリピン人だけを選んで、ベイビューホテル北側のアルハンブラ・アパートメントに連行しました。100人から200人ほどとみられています。
(一部はミラマー・アパートメントへ連行)
ただし必ずしも厳密に分けられたわけではなく、ベイビューホテルに残ったフィリピン人もいれば、アパートメントに移された欧米系女性もいました。

10日夜、11日夜には、再び日本兵がやってきて、若い女性を連行し強姦する行為が続けられました。
アパートメントに連行された人々も同じく被害を受けています。

12日の夕方近く、ベイビューホテルで火災が発生。
ホテルを管理していた日本軍将校が、住民の嘆願を聞き入れて逃げることを認めたため、住民はホテルから抜け出すことができました。
同じころミラマーでも火災が起き、ベイビューホテル同様に逃げることが許されています。
13日午後にはアルハンブラでも火災が起き、こちらも逃げることが許可されました。

監禁されていた数百人の女性・子供たちはその後、エルミタ地区の家々やルネタ公園とその周辺の建物に隠れて生き延びようとしています。

戦闘に巻き込まれたり、日本軍によって殺されたケースも少なくありませんが、18日以降、逃げていた住民は米軍に保護されました。

以上がベイビューホテル事件の概要ですが、これだけだと実相がイメージしづらいので、被害者女性の体験をいくつか挙げておきます。

「コーヒーポット」に連れていかれた後ベイビューホテルに監禁されたグループの1人、14歳のイギリス人の少女は、日本兵によって部屋から引きずり出されて別の部屋に連行されました。
日本兵は、抵抗し叫ぶ彼女に平手打ちを加えたのち、左手で喉元を押さえ、右手で剣を喉に突きつけ抵抗をあきらめさせたうえで強姦しています。また、この後も夜中に日本兵による強姦が行われました。

同じく「コーヒーポット」に連れていかれたグループの1人、24歳のフィリピン人女性は、連行された部屋にいた3人の日本兵に強姦されました。強姦に抵抗した際には顔を殴打されたそうです。
その後、3人の日本兵は部屋から出ていったため、彼女は1人で這って元の部屋に戻ります。
しかし、しばらくして別の日本兵に連行され、再び強姦されました。その夜だけで10数回強姦されたということです。
「コーヒーポット」に連れていかれたグループには、この方の妹2人も含まれていました。この時、それぞれ15歳、14歳だったということです。
15歳の妹の方は、姉と同じく複数回、日本兵による強姦の被害にあいました。部屋から連れ出されそうになったとき抵抗していますが、殴る蹴るの暴行を加えられて連行されています。
下の妹も連行されましたが、生理中とわかると部屋に戻されました。生理中と知れた時、日本兵は彼女の尻を蹴り拳銃を抜いて怒ったということです。

先にも述べましたが、「コーヒーポット」に連れていかれたグループ以外の方も被害を受けています。
母親と一緒にいた13、4歳のフィリピン人少女は、やはり日本兵に連行されていき強姦されました。
少女の母親は連れて行かないよう日本兵に懇願していますが、日本兵は少女に平手打ちを加えて引きずっていったということです。
少女は1時間半後に戻ってきましたが、泣きながら母親に、3回強姦されたと訴えました。

ベイビューホテルからアルハンブラミラマーのアパートメントに移された女性たちも被害を受けています。
アルハンブラの例を挙げると、18歳のフィリピン人女性は、10日夜に日本兵に連行され、3人に強姦されました。この方はその後も連行されて被害にあっています。

ベイビューホテルでは、12日に火災が起きて人々は逃げ出すことができましたが、その後も強姦被害を受けた方もいました。
27歳のロシア人女性は、ベイビューホテルから逃げた後、日本兵に捕まってマニラホテルに連行され、日本兵に何度も強姦されています。

最後に

毎年、8月に入ると太平洋戦争を題材とするテレビ放送や新聞記事が目に付くようになります。
しかし近年は、太平洋戦争で日本国民が受けた被害は題材にされるものの、他国への加害について触れられることが少なくなっているように感じたので、日本の加害性にフォーカスした記事にしてみました。

ちなみに、以前の記事で、

アジア戦域での日本人以外の犠牲者数の正確な数はわかりませんが、各国推計を合計すると1900万人となります。

【日中戦争/太平洋戦争】日本の敗戦と犠牲者数および富の損失【終戦記念日】 - Man On a Mission

 と述べていますが、このうちフィリピンにおける犠牲者数(死亡者数)は111万人と推定(フィリピン政府調査)されています。
ついでに他の国もいくつか挙げると、中国が1000万人以上、インドネシア400万人、ベトナム200万人(餓死)、インド150万人といった具合です。
もちろんこれら死亡者数推定には諸説あり、なかなか確定できるものではありませんが(例えばインドは350万人とする説もあります)、いずれにしても膨大な数の犠牲者を出したことは変わりありません。
このような加害性を念頭に置くことなく「戦没者を追悼し平和を祈念する」ことは、さて、どういった意義を持つのでしょうね。

…などと、自戒も込めてやや挑発的な物言いになってしまいました。
日本では8月15日が終戦記念日と定められましたが、この日は、全国戦没者追悼式が行われていたことや玉音放送という「国民体験」から、内向きとなるファクターを内在させているように思います。
8月15日に記事を上げといてなんですが、終戦記念日とするには不適当な日だったのかもしれませんね。

なお、冒頭で述べた通りフィリピンでは、現地日本軍が降伏文書に署名した9月3日が戦争終結の日とされていますが、他にも4月9日(バターン半島陥落)、10月20日(米軍のレイテ島上陸)などが戦争に関連する日として記憶されています。

 

 

*1:ちなみに当ブログには「世界のマイナー戦争犯罪」というシリーズ記事があり、そちらでも日本の豊富な戦争犯罪からいくつか取り扱ってます。