Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【誰もそこまで】さらに治安維持法OverDose【聞いてない】

前々回、治安維持法についての記事を書きました。

oplern.hatenablog.com

上記は割と長い記事なのですが、それでも書き漏らしたことがそこそこ多かったりします。
今回記事は、その書き漏らした内のいくつかを書こうという、いわば補足記事みたいなもんです。

やや細かい話が多くなりますので、治安維持法に割と関心を持ってる人にしか需要がないかもしれませんが、まあ需要が無い記事を書くのは慣れてるので。アレとかコレとか。

なお、治安維持法の基本的な部分については、前々回記事をご覧ください。

保護観察

さて、まずは治安維持法における保護観察処分についてです。
前々回記事で治安維持法の検挙者数について触れてますが、そこに「保護観察」処分5337人(1944年6月まで)とあります。
この保護観察処分というのがどういったものであるのか、当該記事では説明しませんでしたので、その補足となります。

1936年(昭和11年)、思想犯保護観察法が施行されたことで、治安維持法の罪を犯したもので執行猶予となった者、不起訴になった者、刑の執行を終えた者、仮出獄した者について、保護観察審議会の決議により「保護観察」に付することができるようになりました。

この「保護観察」とは、本人を保護してさらに罪を犯す危険を防止するためにその思想および行動を観察するものです。
なんて書くと、親切感あふれる感じになるのですが、まあ、端的にいっちゃえば、厳重に監視することでした。

ちなみに、治安維持法では当局が容疑者に対して威嚇や拷問、長期の拘禁などを行い、容疑者の共産主義社会主義の思想を放棄させることを行っていました。いわゆる「転向」強要ですね。
保護観察処分にされた者のうち「転向」者の割合がどの程度だったかを見てみると、1937年(昭和12年)1月から1940年(昭和15年)10月まで保護観察に付せられた者3671人中、ほぼ転向した者は1823人、準転向者1658人、非転向者190人だそうです。
まあ、世間から切り離された上、国家権力が威嚇・拷問・長期拘束なんてやってきたら、これに耐えられる人なんてごくわずかですよね…。

植民地でも治安維持法

さて、大日本帝国時代、日本は朝鮮や台湾などいくつかの植民地を有していました。
(植民地については「外地」と称されることがありました。大日本帝国の植民地についてはこちらの記事など。)

で、これらの植民地についても治安維持法が施行されており、民族解放を求める社会運動が弾圧の対象とされました。
ちなみに治安維持法は2回めの改正で、刑の執行を終えた者を引き続き(事実上無期限に)拘禁できる「予防拘禁」制度が導入されましたが、これは朝鮮で一足早く導入されています(1941年2月に朝鮮思想犯予防拘禁令が公布)。さらに予防拘禁所の規模も内地より大規模だったようです。

内務省と司法省

前々回記事にて、治安維持法の成立要因には「アメとムチ」説やら「日ソ国交樹立」説やらがあると書きました。
こういった説に対して、中澤俊輔氏は内務省と司法省、憲政会と政友会の四者間調整がなされたことを重視して、加藤高明内閣(護憲三派内閣)の存在が「治安維持法が1925年に成立した最大の要因」としています。
この説は、「アメとムチ」説やら「日ソ国交樹立」説やらと全く無関係というわけでもなく、内務省ソ連要因を重視、司法省は国内の思想状況を重視する傾向がありました。
ソ連要因については、1925年の日ソ基本条約においてソ連の宣伝活動を非難する論拠が得られたことから、その条約を補完する「結社」取締法としての治安維持法(初期)成立につながった面があるようです。

なお、成立に至る過程について興味のある方は、以下の本などどうぞ。

アメとムチ -普通選挙治安維持法-

治安維持法の成立要因として最もメジャーな「アメとムチ」説…男子普通選挙治安維持法を抱き合わせたという説ですが、実のところ、これは治安維持法の成立前から存在していました。
1925年2月4日の衆議院予算委員会にて、与党革新倶楽部清瀬一郎が、枢密院が普通選挙法の交換条件として治安維持法を要求した、との疑義を質しています。
当時の加藤内閣も普通選挙法が争点化されることについては警戒しており、枢密院との取引に応じた面もあったと思われます。
とはいえ、若槻礼次郞内相や与党議員はむしろ普通選挙法を「危険思想の安全弁」と位置づけており、また内務官僚も普通選挙法と治安維持法を直結する見解には批判的でした。

普通選挙法が危険思想を蔓延させるという考え方は、普通選挙に反対する政友本党や右翼の論法であり、内務省や憲政会のものではないことに注意が必要です。

ちなみに、当時の東京市は示威行動や暴力団体が横行しており、これは普通選挙法賛成・反対の別なく行われていました。
普通選挙反対派の右翼による加藤首相暗殺未遂事件や、治安維持法反対派の加藤宅侵入事件も発生しており、これらの暴力主義は、枢密院に嫌悪感を募らせていたという指摘もあります。
なお、治安維持法案に反対する議員、識者、新聞なども暴力主義革命を否定する点では一致していました。

横浜事件

少し、横浜事件について触れておきたいと思います。
横浜事件は、1942年(昭和17年)に起きた、治安維持法による言論弾圧事件です。これは、一つの事件で終わるものではなく、最初の事件を契機に、神奈川県特別高等警察による捏造で言論・出版関係者らが次々と検挙された事件です。

横浜事件は、1942年(昭和17)総合雑誌「改造」8・9月号に掲載された細川嘉六(ほそかわ かろく)の論文「世界史の動向と日本」が、陸軍報道部長であった谷萩那華雄(やはぎ なかお)に共産主義の宣伝であると非難されたことに端を発します。
問題の「改造」は、内務省の事前検閲を通過していましたが、谷萩はこれについても、通過させたのは検閲の手抜かりだと批判しました。
これをきっかけに、『改造』は発売頒布禁止処分にされ、神奈川県特高は細川を検挙、さらに細川の知人や関係者らも次々と検挙されることとなります。

神奈川県特高は捜査中に検挙者の1人の家で発見された写真をもとに、「泊共産党再建事件」をでっち上げさらに検挙者を増やします。
問題の写真は、細川が郷里の富山県泊(とまり)町(現朝日町)に法要で帰省することとなった際、新著の「植民史」が東洋経済新報社から出版されたことの記念を兼ねて、編集者や満鉄調査部の人々を伴って宿泊旅行した時のものでした。
神奈川県特高は、この旅行における写真について、「日本共産党の再建準備会」という虚偽の自白調書を作成、写真に写っていた編集者や調査員を次々と検挙します。

こうやって事件は拡大していき、1944年中央公論社改造社日本評論社岩波書店等の編集者30余人が相次いで神奈川県特高警察に逮捕されました。なお、改造社中央公論社から強制的に解散させられています。

最終的には約60人が逮捕されたのですが、神奈川県特高は、被疑者に「自白」を強いるため激しい拷問を行い、その結果4人の獄死者を出しています。
なお、判決については1945年8月から9月にかけて行われており、約30人が有罪とされました。
(懲役2年、執行猶予3年の判決で釈放。)

なお、横浜事件では、1947年4月に被害者が拷問を行なった元特高警察官30名を特別公務員職権乱用等致死傷罪で告訴しており*1、また、その後もたびたび再審請求が行われています。

同事件においてアメリカから帰国直後だった世界経済調査会の川田寿・定子夫妻もアメリ共産党と関係ありとして検挙されているのですが、川田定子が拷問した警察官を刑事告訴するにあたって記述した「口述書」が残されてますので、そちらから一部、拷問の内容について引用しておきます。

私共は昭和6年より16年迄約10年間、米国に於て労働運動に参加した経歴ある理由を以て、帰国後も共産主義運動に関係あるものとの嫌疑の下に検挙されました。然し、特別高等警察は何等その根拠を突きとめ得ず、米国に於ける私共の労働運動を、日本の治安維持法違反に適条せしめ法的に罰しようとの苦肉の策を練りあげて、 3ヶ年の長期間を最も野蛮な警察と未決に封じ込めました。
その間の彼らの拷問は言語に絶する暴力と、女性として堪え得られざる「はずかしめ」とを拷問手段としました。拷問使用品は、竹のしない、しないの竹べら、コン棒(5尺位の長さ)、麻づな、コウモリ傘の尖端、靴のかかと、火箸である。検挙後2ヶ月間は係長松下警部が専任、私の取調べに当り、夜間、長時間に亘って腰部を裸にして床に座らせ、両手をツナで後手に縛り上げ、私の声が戸外にもれぬように、窓と入口とを鍵をかって、閉め切って、口にサルグツワをはめた上で靴のかかとでモモとヒザ、頭を蹴り散らし、そのため内出血ひどく、むらさき色にはれ上り、ムチのミミズ腫れの跡は全身を傷つけました。そのあげく、火箸とコウモリ傘の尖端でチクチクと尖きさし、歩行出来なくなる迄に残忍な拷問を繰り返しました。又、陰部を露出せしめ、コン棒で突くなどの陵辱の限りを尽しました。

最後に

さて、つらつらと治安維持法について書きそこねたことを書いてきましたが、実はまだまだ書いてないことがあったりします。
とはいえ、日本のディストピアっぷりにちょっとウンザリしてきた感もあったりしますので、残りのお話はまたいつか。

 

 

*1:松下英太郎警部、柄沢六治警部補、森川清造警部補の3名が有罪とされ懲役の判決が下されたものの、1951年9月調印のサンフランシスコ講和条約の発効に伴う「大赦」により、投獄されることはありませんでした。