Man On a Mission

システム運用屋が、日々のあれこれや情報処理技術者試験の攻略を記録していくITブログ…というのも昔の話。今や歴史メインでたまに軍事。別に詳しくないので過大な期待は禁物。

【戦争と軍隊のイヤな話】イヤばな #4【現代の戦争:イラク】

戦争や軍隊におけるイヤな話を取りあげる不定期連載(のつもり)第4弾です。

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本シリーズは、最近、あまりに軽々しく軍事・戦争を扱う方が目につくようになったため、戦争で何が起こるのかよくわかってないのじゃないかと思って始めたものです。
昨今は、日本国民の「戦争」というものに対する認識が、ファンタジー化というか娯楽コンテンツ化している傾向にありますが、これと同じことは、かつて第一次世界大戦前のヨーロッパでも起こっていました。

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当時のヨーロッパ中心部では、19世紀初めのナポレオン戦争以後、大規模な長期戦が起こっておらず、そのため戦争に対する危機感が薄れむしろロマンチック/ドラマチックなものだというイメージを抱く人々が増えています。
(もちろん行き着いた先は地獄でした。端的なものとして戦死者数を挙げてみると、同盟国側の戦死者数が約481万人、連合国側の戦死者数が約528万9千人です。これは「死傷者数」ではありません。「戦死者数」です。)

その昔、田中角栄が、新人議員に対して「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢となったときはとても危ない*1」なんて言ったという話がありますが、現在はまさにそのような状態にあります。さて、今後の日本はどうなっていくのでしょうね。

 

……などと無責任に投げっぱなしで終わる雰囲気になってしまいましたが、本題をまだ書いてませんでした。
本シリーズは以上の状況を踏まえて、戦争で何が起こるのか/何が起きていたのか知ることを主題とするもので、時代・地域などにはこだわらず、とにかく戦争とか軍隊におけるイヤな話を取り上げます。なお、記事の性質上、書籍などからの引用が多くなります。

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ちなみに、過去の記事は以下の通り。

oplern.hatenablog.com

oplern.hatenablog.com

oplern.hatenablog.com

前回(第3回目)の記事では、イラク戦争における兵士の死傷について取り上げました。
今回の記事も前回に引き続いて、「兵士は戦場で何を見たのか」より、イラク戦争のお話です。

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なお、以降は延々と陰鬱な話が続きますので、ご承知おきください。
ちなみに、今までの画像は、ナポレオン~覇道進撃~10巻より。

さあ、それでは、イヤな話を始めましょう。

負傷した米軍兵士

兵士は戦場で何を見たのか」は、2007年にイラクバグダッドに派兵された、米第16歩兵連隊第2大隊に著者(デイヴィッド・フィンケル)が密着取材して書かれたものです。

ちなみに、デイヴィッド・フィンケルは続けて「帰還兵はなぜ自殺するのか」を出していますが、日本ではこちらの方が先に出版されており、知名度も高いです。
さておき、前回も「兵士は戦場で何を見たのか」より、兵士らの死傷についていくつか取り上げました。今回も同様に、同大隊兵士であるダンカン・クルックストンの負傷を中心に取り上げます。

2007年9月4日

ダンカン・クルックストンは、2007年9月4日、IED(即製爆弾)の爆発に巻き込まれたハンヴィーに搭乗していました。
大隊長のカウズラリッチ中佐が、2008年1月17日にサンアントニオのブルック陸軍医療センターでダンカン・クルックストンを見舞った際、母親のリー・クルックストン、妻のミーガン・クルックストンにその時の様子を語っています。

「陸軍の人たちが来て話してくれましたよ、どんな爆弾だったのか。とても大きなものだそうですね」リーが言った。「とても大きな爆発だったって」
「ええ。爆弾は二十五センチの銅板で、凹型をしています。その後ろにある二十三キロの爆薬が爆発して、その銅板がこんな格好で飛んできて、車を貫いていきます」カウズラリッチが言った。
「貫通するのね」リーが言った。
「貫通するんです」カウズラリッチは頷きながら言った。「車を貫通し、すぐにマレーが殺されました。マレーは自分に何がぶつかってきたのかすらわからなかったでしょう。シェルトンは自分に何がぶつかってきたのかわからなかった。それは次にダンカンの両脚を切断し、デイヴィッド・レーンの背中を貫通していった。それでレーンはすぐに失血した」
「みんなで彼をくるまから引っ張りだした、と言ってました」ミーガンが言った。
「彼を引っ張り出しました。そのときには――大丈夫そうに見えたんです。でも、傷が背中にあったので、救い出した者たちには見えなかった」カウズラリッチが言った。「しかもその板は、身長百九十五センチのジョー・ミクソンを、車の外に吹き飛ばした。それで地面に倒れて、転がって、これはいったいどういうことだという感じでした。一発のEFPが爆発しただけで、まるで六人がそこに一列に整列していたかのように。この一発で正確に」
「いちばんダメージを被る場所を」リーが言った。
「貫いていきました」とカウズラリッチ。

この時に使われたIEDは、自己鍛造弾(爆発成形侵徹体:EFP)型のものでした。前回も触れましたが、再度EFPについて説明しておきます。
EFPは成形炸薬弾の一種といえるものです。炸薬の爆発で金属ライナーが発射されますが、この金属ライナーは爆発で生じた爆轟波*2の進行方向に絞り込まれるように変形、弾丸状となって目標に激突します。強力な貫徹力を持つことが特徴で、装甲車両にとっては脅威となりました。

ダンカン・クルックストンの負傷

EFPによるダンカン・クルックストンの負傷は、非常に深刻なものでした。
特技兵のマイケル・アンダーソンは、カウズラリッチ中佐より先にダンカン・クルックストンを見舞っていますが、大きな衝撃を受けたようです。

「心が粉々になった」とアンダーソンは後に語った。「だって、俺の知ってるクルックストンは大男だった。あいつがどんな体形だったかよく覚えている。それなのに、あいつを見たとき、正直に言えば、子供みたいだと思った。彼が以前は大男だったなんてとても言えないような感じだった。両脚がなかった。右腕がなかった。残ったほうの腕には手がなかった。すっかり包み込まれていた。ゴーグルをかけていた。体はそんなひどい状態だった。正直なところ、気味が悪いなんて言いたくないけど、本当に気味が悪かった。あんな姿になった仲間を見るなんて。あってはならないことだ。九月四日が蘇った」

医療センターでは、ダンカン・クルックストンの負傷の治療が行なわれていますが、これも想像を絶するものです。

ダンカンの感染症。発熱。床ずれ。肺炎。腸穿孔。腎不全。透析。人工呼吸器のための気管切開。一時的に縫合されなければならなかった目。到着したときにはカリカリになっていて結局崩れ落ちてしまった耳。三十回に及ぶ手術。質問。絶望。まだ脚と腕がそこにあるかのように痛む幻肢痛

カウズラリッチ中佐の見舞いの場面に戻りましょう。
カウズラリッチ中佐は、リー、ミーガンと共に、ダンカンの病室を訪れます。

「わたしたち、結婚して一年も経ってないの」病室に近づいたときにミーガンが言った。
「そうですね。」カウズラリッチは言った。そして窓の向こうの、アンダーソンが正直に「気味が悪い」と言った光景を見た。しかし、目にしたものを伝えるのにそんな言葉では到底足りなかった。たくさんのものを失ったダンカン・クロックストンの姿には現実味がまったくなかった。フルサイズのベッドの上に、彼の半身が載っていた。そこに固定されたかのように、自分の体を動かすための手足が――包帯でぐるぐる巻きにされて固定されたわずかに残った片腕はあるものの――残っていなかったので動けなかった。気管切開チューブが喉の中に挿入されているので喋れなかった。火傷と感染症のせいで体のどの部分も包帯が巻かれ、テープで留められていた。ただ、赤くただれた頬と、開いたままのいびつな形をした口と、潤いを失わないようにゴーグルで守られた目のところは開いていた。ゴーグルの内側に水滴がこびりついているので、何を見るにしろその水滴に邪魔されていた。「なんてことだ」カウズラリッチが小声で言った。

2008年1月18日

以前、銃弾が人体に当たると何が起こるのかについて、記事を書いたことがあります。

oplern.hatenablog.com

上記記事では、近年は小銃弾の高性能化や戦闘の様相変化などにより、再び四肢切断が増加する傾向にあると書きました。
イラクでも、四肢切断となる兵士が多く出ています。
医療センターには四肢切断手術を受けた人々が看護を受ける「勇者のセンター」と呼ばれる施設が設けられましたが、その落成式において、統合参謀本部議長が以下のようなスピーチをしていたそうです。

「みなさんについて、こう言う人がいるでしょう。『彼は腕をなくした、彼は脚をなくした、彼女は失明した』と。でもそれは違うのです。あなたがたはその腕を捧げたのです。その脚を捧げたのです。国への贈り物として。そのおかげで私たちは自由の中で生きていられるのかもしれません。みなさんに心からお礼を言います」

なんというか、偉い人の発想ってのは凄いですね*3

さておき、ダンカン・クルックストンを見舞った翌日の2008年1月18日、カウズラリッチ中佐は医療センターにいる他の部下たちに会いに行きます。
「あの最低のくそ野郎には二度と会いたくない」と言っていた兵士もいたそうですが、結局は全員がカウズラリッチと会い、いっしょに昼食を取りました。

病院のカフェテリアの長いテーブルにカウズラリッチといっしょに座って昼食をとった。彼らひとりひとりが、これまで十六―ニが戦場で受けてきた損害がどれほど凄まじかったかを表す存在だった。
ジョー・ミクソンがいた――九月四日に爆破されたハンヴィーに乗っていた五人のなかのひとりだった。そしていま、両脚を膝下から切断された状態で、生活に順応しようと努力していた。
マイケル・フラデラがいた――八月に両脚を膝下から切断した。
ジョシュア・アチリーがいた――六月にギーツ軍曹に向かって「目を撃ちやがった」と叫んだ兵士だった。
ジョン・カービーがいた――四月にケイジマが死んだとき、その隣りに座っていた。そして五月に腕に銃弾を撃ち込まれた。
そしてテーブルに沿って兵士がふたり続き――片足を失い(片足を捧げ)、太腿に爆弾の破片が入っている(太腿を捧げた)兵士と、やはり片足を失った兵士――いちばん離れたところにいびつな頭をした兵士が車いすに斜めに静かに座っていた。それがエモリー軍曹だった。後頭部を狙撃されてから九ヶ月が経った、エモリーは、陸軍医療センターにいた。

2008年1月25日

2008年1月25日、ダンカン・クルックストンは、これまでとは違う感染症にかかります。
担当医は、たとえ生き抜いたとしても、恒久的な広範囲に及ぶ脳損傷を受けており、臓器の機能が損なわれるだろうと話しました。また、すでに腎臓は透析に頼っており、すぐにも人工呼吸器のみで生きていくことになると言います。
リーとミーガンは、尊厳ある穏やかな死を迎えるのが最良であると決意、午後3時46分にダンカン・クルックストンは亡くなりました。20歳を迎える前日のことでした。

最後に

前回に引き続き、イラクに派兵された米軍兵士について取り上げました。日本では、こういった米軍兵士の負傷について取り上げられることはめったにありません。
日本には、国民に適切な情報を渡すことなく、権力側が様々なことを決定しちゃうという悪しき伝統がありますが、現政権も「日本の伝統」正統継承者らしく、戦争の実情を知らせないまま色々な決断を(誘導付きで)国民に迫りたいようです。

過去の戦争は日本国民に「権力の監視」の重要性を知らしめたと思っていたのですが、あれほどの犠牲を出したにもかかわらず既にその知見は失われつつあるようですので、おまえらのしょうありがしんぱいだ今後の先行きに不安がぬぐえません。

 

 

*1:この言葉について、最近「第二次大戦のころと現代の戦争は違う」とかずいぶんフォーカスのずれたことを言う人も出てきてるようですが、これこそ、戦争を知らない世代といえるのかもしれません。いや、まあ、私も知らない世代なんですけどね。

*2:ばくごうは。爆発によって生じる音速を超える衝撃波のこと。

*3:ひとでなしっぷりが。